AKITOの思考ノート

あきとの備忘録

板チョコレートは一日一枚

#22 無駄遣いかどうかは、無駄遣いをしてはじめてわかる

極端な無駄づかいと病的なまでの節約ライフを経験してきたぼくは、最近になってようやく「お金を使うことの価値」に気づくことができました。

お金で価値を得る

ぼくたちがせっせと働いて稼いだお金を使うということは、それと同じ価値のあるモノやサービスを新しくゲットするということです。

すなわち、お金という価値を手放すことが、モノやサービスという新しい価値を手に入れることにつながります。

たとえばサッカーが好きな人は、日々応援しているチームのユニフォームなどを買うことで、自分の身体や生活空間にあたらしいアクセントを加えることができます。

グルメが好きな人は、日ごろから注目しているような商店街やレストランに出向いて食事をすることで、「食」を楽しむという人生における至極の時間を堪能することができるでしょう。

このように、お金を手放すことは絶対的な悪ではない。自分の中にある好奇心を刺激して、あたらしい何かと出会うための最高のチャンスだと考えることもできると思うのです

節約信仰による全体主義

世間という価値観

そうすると、節約術をのたまうSNSや雑誌で紹介されている「無駄づかい」という用語についても、あたらしい定義づけを加えなければならないかもしれません。

なぜなら、ある行動が無駄づかいに値するのかどうかを判断する基準の多くが、「世間の価値観」だからです。

いわゆる「正しい」お金の使い方とは、世間的に無駄だと思われていることへの出費を避けることだとされているのです。

自分の価値観

しかしながら先に述べたように、お金を使って得るものにたいして感じる価値は、それぞれの人間によって異なります。

その人の国籍や性別、趣味、生育環境、友達付き合い、好きな色やスポーツなどによって、感受性のアンテナが反応する方向は千差万別なのです。

考えてみれば当たり前です。

たとえば、幼いころからジャンプアニメを見て育ってきた男子中学生が、はたしてプリキュアのかわいらしいフィギュアに興味を示すでしょうか。

スポーツにまったく興味のない吹奏楽部の女子に、ドイツサッカーリーグ・ブンデスリーガドルトムントで活躍する「ハーランド」のユニフォームをプレゼントしたら、はたして彼女は喜ぶのでしょうか。

自分の価値観で断罪するな

モノやサービスにたいして抱く価値観が人によって違うのは当たり前です。

構造主義的に言えば、「モノやサービスにたいして与える物語や価値は人によって異なっている」のです。

しかしながら世の中には、自分の価値観で、他の人のお買い物や食事にたいしてグチグチと文句を言いたがる人も一定数います。

ちなみに、ぼくの母親や姉がそうでした。彼女たちは、幼いころにぼくが好きで集めて読んでいた漫画本に「お金の無駄だ」「くだらない」という罵声を浴びせつづけていました。

少し前までは、特定のアニメやアイドルのグッズを無心に集めるような人々を揶揄するような「超干渉主義者」もかなりいた気がします。最近はだいぶ落ち着いてきたんですけどね。

無駄づかいをしないことはできない

お金を使い、判断する

いままの話を総合すると、あるモノやサービスにたいして使うお金が無駄なのかどうかは、実際にお金を使ってみないと判断できません。

すなわち、「モノやサービスを買う前に無駄遣いをしない」ことは原理的に不可能なのです。

モノやサービスの価値が、自分が手放したお金の価値を上回るか下回るかどうかなんて、実際にそれらを買って使ってみないとわからないじゃないですか。

もちろん、ネットや雑誌の口コミやレビューを参考にすることはできます。いろいろな専門家の評価を見ることもできます。

ですがそれらは、彼らがかけている個性あふれるレンズを通して感じた感想にすぎません。あなたの感想ではないのです。

あなたの感想は、あなただけのレンズを通してしか見ることができない。すなわち、実際にお金を手放さなければ、それが無駄づかいかどうかはわからないのです。

だからこそ、お金を使っていない段階においては、「無駄遣いをしないことはできない」のです。

基準は千変万化する

しかしながら、ぼくたちの価値観が人生をとおして変化がしないわけではありません。

20代の時はコンビニ食が多かったけれど、30,40代になるにつれて自炊する機会が増えていくのは、そのよい例です。

具体的にいえば、

  1. 仕事や友達付き合いで忙しい20代は、コンビニや外食のような身体に気を使わないライフスタイルが身についていた
  2. 今後のことを冷静に考えるようになった40代以降は、自分で自炊をしたりジムに行ったりするようになった

ような場合ですね。

この人の場合は、コンビニ食から得ることができる価値よりも、自炊をして得ることができる価値のほうが高いと感じるようになったわけです。

他にも、

  • 大学で出会った友達に影響されて読書家になった
  • 揚げ物よりおさかな系の料理を好むようになった

のような例があります。

誰かと出会ったり、年を取ったりすることで、自分をつくりあげてきた信念や価値観が大きく変化することは当たり前のことです。

それはすなわち、モノやサービスから得られる価値の変化にもつながります。

まずは「金銭価値」を手放してみる

分業体制が確立している資本主義社会で暮らしているぼくたちは、世界中のいろいろなブランドやショップの商品から、自分の好みにあうようなモノを自由自在に選ぶことができます。

そして、お金を手放して実際にモノやサービスを購入・使用することで、自分が何をしたら楽しくなれるのか、何から幸せを得ることができるのかを知ることができるのです。

お金を使わないということは、すなわち、この機会を捨てるということです。

便利な社会において、人間の好奇心を満たしてくれる機会を自ら手放してしまうのはもったいない。

機会を手放すのではななく、お金を手放す。好奇心を手放すのではなく、お金を手放す。

無理して節約するよりも、実生活に支障がでない程度に、楽しくダラダラお金を使っていけばいいのではないでしょうか。

お金に使わされるな

出費は手段

最後に言っておきたいことは、「お金に使わされてはいけない」ということです。

お金を使うことや、大量のサービスやモノを得ることそのものが目的になってはいけません。

ぼくたちが出費をする目的は、お金から受け取ることができる以上の価値を内包したモノやサービスを探し求めることです。

そうすることで、「質的な人生の豊かさをグングン高めていきましょう」ということです。

つまり、出費が手段であり、目的ではない。散在そのものが目的にならないように注意してください

支配権は自分

お金の支配権は自分です。

近代の頭のいい学者さんたちが、「所有権」という今では普遍的な価値となった大切な権利に命を吹きこんでくれました。

その権利を持っているぼくたちがお金をどう使おうが自由です。母親や妻、夫をはじめとする干渉主義者共の戯言に耳を傾けることはないのです。

もちろん、権利と反対側には「義務」があります。

やたらと権利ばかりを宣い、家族を養ったり犯罪をしないといった義務を果たすことができないのは、ただのエゴイスティックでありご都合主義者です。

自分の所有権は自分のため、相手の所有権は相手のため、社会の所有権は社会のためですからね。

まとめ

今回は無駄づかいについてだけ書くつもりだったのですが、結局はいろいろな方向へ脱線してしまいました。

結局無駄づかいというのは、後天的にぼくたちが与えるものであって、先天的に存在する概念ではないのです。

だからこそ、お金を手放さずして無駄づかいをしないことはできないのです。

そして、お金の所有権はぼくたちにあります。ですから、義務を果たしている限りにおいて、その権利を行使するのはぼくたちの自由です。

くだらない外野に翻弄されず、自分の権利と義務にしたがってダラダラと面白おかしく生活していきたいです。