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ぼくの大好きなあたたかい夏から、秋という貴重なクッションを吹っ飛ばすかのように、ここ最近は冬の寒さがつづいています。
「暑い!」から「寒い!」の間には、やはり緩衝材となる「秋」が一度くらい来てもらわないと困りますよね。
今回は、季節の変わり目なのか何なのかは知りませんが、なぜか突然あらゆることをするのにやる気を失ってしまった僕のことについて書いていきたいと思います。
気づいたら無感情
今年の8月以降
公務員試験を無事終えて第一志望のところから内定をいただくことができた8月以降は、割と気分上々で毎日をすごしていました。
一年近くに渡るバトルを切り抜けてきたわけですから、そういうプレッシャー的なものからの解放感は大きかったです。
勉強に関しては、大学受験時代に長時間勉強を経験していたので、とくに抵抗はありませんでした。
ですが、精神的なプレッシャーは相当のしかかっていましたね。やはり「無職の社会人」というレッテルを貼られるのは嫌だったので。
ただ、合格しちゃえばそんなストレスとはおさらばできます。
内定をもらって以降は、自分の好きなゲームやサッカー、お散歩、食べ歩きをはじめとする大量の趣味とともに、くだらないけれど楽しい日々を送ることができていました。
10月中旬になぞの停滞感
異変を感じたのは、10月の中旬です。
まさに、今から一週間くらい前のこと。
今までは、ルーティーンとしていた英単語やリスニングの勉強を、毎朝当たり前のようにこなすことができていました。週三回のサッカーやランニングも普通に楽しめていたし、年明けに提出予定の卒論も、スケジュールとにらめっこしながら割と順調に進めることができていました。
ですが先週くらいから、何をやるにも体が重く感じるようになってしまったのです。
別に、体重が増えたわけではありません。
”重力が二倍の部屋で過ごしているような感覚。ドラゴンボールの修行じゃないけれど・・・”
朝もベッドから起きれない。目は開けているけれど、足も手も頭も動かしたくない。
ベッドから起きてストレッチだけはこなすものの、英単語の勉強をするための英語アプリ「mikan」を開くことすら億劫。結局、20単語しかやらない。リスニングも、今までは15分は取り組んでいたものの、このごろは一分とかです。
運動をしないとガチで鬱になると思いランニングだけは惰性でつづけてはいます。
ですが、なかなかいつものペースで走ることができず、30分くらいでダウンしてしまう始末です。
いろいろなことを踏まえたうえで、ぼくの行動にストッパーをかけてくる「心理的な原因」がきっとあるはずだと思うようになりました。しかし、それがわからない・・・!
犯人さがし
原因論と目的論
ぼくを蝕んでいる犯人を追っ払わない限りは、ぼくの不調が解決することもない。
ただぼくは、違うもう一つの可能性にも気づきました。
それは、自分の本能にある「だらけたい」という無意識が、自分の心にストッパーをかけてしまっているということ。
ホントはだらけたいけど、常に向上しなければならないという欧米的な価値観に染まってしまっている偽りの自分もある。
その偽りの自分を否定するために、体が拒否反応を起こしてしまっているのではないかと思うわけです。
英単語などに取りくんでいる活動的な今の自分を否定すれば、思いっきりだらけることができるからです。
つまり、原因があるから動けないのか、動きたくないという目的があるから動けないのか、どちらかが考えられます。
目的論は違うだろう・・・
目的論的に考えると、何にも取りくまないでだらけているのであれば、ぼくはその現状に満足しているはずです。
つまり、「だらける」という目的を達成しているので、その現状に不満を抱くことはないはずなのです。
しかし、実際は不満を抱いています。そして今でも、サッカーやゲーム、料理に興味をもっていた前の自分に戻りたいとも思っています。
であるならば、今回の不調の原因は「目的論」ではなく「原因論」で考えたほうがいいのかなと思うわけです。
次のチャプターでは考えられる原因をいろいろと書いてみたいと思います!
謎の原因
ふれあい不足
一つ目に考えられる原因は、「ヒトとのふれあい不足」です。
「ふれあい」と聞くと動物園みたいな響きですが、意味はまさしくその通り。
何気なくボディータッチを交わし、何気なく話しかけ、何気なく一緒に歩き、何気なく近くのコーヒーショップに入り、何気なく大学の話をして、何気なく笑い、何気なく別れ、何気なく帰路につく。
こうした数々の何気ない行動って、よくよく考えてみると結構幸せなことなんだなと思うのです。
ただ今のぼくには、何気ない行動を通じて誰かとふれあうような経験が圧倒的に不足していると思います。
孤独感はたばこよりも体に悪いみたいな話をよく聞きますが、いまのぼくがまさに、「孤独」を味わっているような気がするのです。
卒論が極めておっくう
二つ目は、卒論です。
戦後社会を生きるほぼすべての大学四年生を悩ませつづけてきた苦行の代名詞・卒業論文。
仏教の開祖であるお釈迦様は、四苦八苦の四苦を「生老病死」とのたまわれましたが、卒論もどこかに入れてあげたほうがいい。
というつまらない冗談はさておいて、卒論がむしばむ精神的ダメージには、やはり目を見張るものがあります。
何を書いていいかわからないから放置していると、何か書かなくてはいけないと焦りはじめる。しかし、何を書いていいのか分からないのでさらに放置をつづけると、またまた焦りはじめる。けれど・・・。
この無限ループに陥ってしまうと、四年間近く遊びほうけていた自分の過去を恨むようになり、次第に自暴自棄になってしまうのです。
結果的に鬱になってしまう方もいるらしく・・・。卒論、恐るべし!!
”書こうという教授の御触書”
ぼくの場合は、ゼミの教授からのアドバイスである「とりあえず書こう」という指示にしたがって、読んできた本や論文の内容をもとに、惰性でダラダラ書きつづけていました。
しかしそれは、目的も結論もなきただの殴り書き。
自分でも結局何をどう結論づけたいのかわからなくなり、再び迷走に入りこんでしまったわけです。
どうにかしたいけど、どうにかできない。結論がわからないから卒論のロードマップも描けない。
こうした堂々巡りを繰りかえしているぼくの思考が、ぼくを不調へと追いやっているのかもしれません。
目標がない
三つ目は、目標がないこと。
大学受験にとりくんでいた高3や公務員試験の勉強に明け暮れていた大学三年のころは、日々一つの目標にむかって精進することができました。
すなわち、「合格」です。
合格を得るためにいろいろなことを無駄にしてきたけれど、その無駄は、合格を失うよりははるかにちっぽけなもの。
なにかを犠牲にしながらも「合格するんだ」という強いエンジンがあったので、あの頃は毎日が一生懸命でした。だからこそ、楽しかったです。
”特に目標はない・・・”
しかし、今のぼくには特に目標はありません。
内定ももらったし、卒論もとりあえず書けば大丈夫そうだし、別にほしい資格もないですからね。
受験の場合は、「浪人」とか「無職」という極めて悲劇的な現実と向きあう羽目になるのが目に見えていました。
ですが、自分で「○○の資格を取ろう!」と意気込んでみたところで、そこには使命感がまったくありません。なので、特別「頑張ろう」とか「勉強せねば!」みたいな気持ちも湧いてこないわけです。
やみくもに目標を掲げたところで、使命感とか責任感とかがないと達成できないんですよね
目指すべきものもなければ、欲しいものもない。
そんな非欲望的な人生は、ぼくたちのような人類(つまり動物)にとってはかなり耐え難いものなのかもしれません。
次回へ
ちょっと文字数が多くなりそうなので、記事を二つに分割したいと思います。
次回の記事では、「犯人の特定」と「これから」について書きたいなと思います。やっぱり、素直なきもちを隠さずに書くと、自分の心が抱えている悩みがいくらか整理される気がします。わからんけど。
ちなみに、この記事を書いているまさに今も、いろいろと病んでいる所であります。
ところで、病むと、自分の食欲もコントロールできなくなるんですかね。
自分が何をどれくらい食べたいのかがわからず、つい暴飲暴食に陥ってしまうんですよ。
まあ、時間が解決してくれるだろうと思っているんですけどね。