まくら
こんにちは、あきとです。
暇つぶし力。
あれよこれよと伸びまくる平均寿命をなんとか楽しく生きていくためには、この「暇つぶし力」こそが大事になるとぼくは考えています。
一昔前までは、60歳程度まで生き延びれば大往生だと称賛されていた世の中でした。
しかし、いまはだいぶ風向きが変わってきています。
60で亡くなったら、「ぐすん、ぐすん。いくらなんでも若すぎるわよね」といわれてしまう始末です。
このようにいまの社会においては、70歳とか80歳、強者であれば90歳という年齢まで生き延びてしまうことが当たり前。
そういう中でも、授かった「生」というものをたっぷりと堪能するためには、暇つぶしという力が求められることになるでしょう。
あれよ、あれよと伸びる寿命
寿命が延びるということは、人生においてできることが増えることなのですから、一部の人にとっては確かに望ましいことであるといえるでしょう。
やりたいことがあり、達成したい目標があり、叶えたい夢がある。
人生という迷路を貪欲に楽しんでいけるような人であれば、寿命が延びることに対して何の抵抗も抱かないはずだからです。
たとえば、76歳で亡くなった天才物理学者であるアルベルト・アインシュタインが、もし90歳過ぎまでご存命であったとすれば、おそらく彼は自分の大好きな学問を徹底的に極めようとしたでしょう。
ですが、寿命が延びてしまうとなると、それだけ「生き」なければならない時間が増えることになります。
それって、なにか打ち込めるような対象がない人間にとっては、ただの苦痛な時間なのではないかと思うわけです。
そこでぼくが提唱したいのが、徹底的に「暇つぶし力」を鍛えるというもの。
ぼくたちは常に、アホ長い人生という時間の暇つぶしをするためになんとか楽しく生きようと必死になっています。
ですから、「暇つぶし力」がある人が楽しく人生を過ごせるということは、もはや自明のことだと申し上げているわけです。
暇つぶし力という偉大さ
暇つぶしというのは、「特定の対象に一定時間の注意を向けること」であると、ひとまずは定義しておきます。
暇つぶしができることから生まれるメリットは、大きく分けて二つあると思います。
第一に、時間を忘れられるということです。
時間を忘れるということは、それだけ自分の脳みそがなにか違うものに没頭しているということです。
一定の注意力をもちながら、特定の対象に自分の思考とか行動の重心をおくことができれば、そのあいだだけは、「生きなければならない」という意識と決別することができます。
たとえば、料理をしたり食べたりすることが趣味の20代男性がいたとしましょう。
彼は、日ごろから外食やコンビニ飯は食べないで自炊ばかりしているので、一日の献立を考えたり食事を作ったりするために数時間(3~4時間)を費やしています。
この時点で、一日の約4分の1くらいの時間を「忘れる(=暇つぶしする」ことができているわけです。
しかも、自ら楽しいと思えることをしながら、です。
これが、暇つぶしの威力。
もし彼に料理という趣味がなければ、一日のうちの4時間くらいは、思考を停止した状態で虚空を見つめながら時を過ごすことしか能がなくなってしまうかもしれません。
第二に、ボケないということです。
ぼくたち人類には、廃用といって、しばらくのあいだ使われていない機能の働きを低下させてしまう仕組みが備わっています。
ある能力を使わないということは、脳や身体が、その能力が生存のために必要であると認識することができないからです。
たとえば、使われない筋肉は、日を見るたびにぐんぐん衰えていきます。
さらに、使われない脳みそは、その認知能力を日々懸命にそぎ落としていくことでしょう。
身体が衰えれば自立歩行が不能になる。
脳が衰えれば「おい、ばあちゃん!今日の朝ご飯はまだかいな!?」、「あれあれおじいちゃん、さっき食べたじゃないの」状態になってしまいます。
しかし、この廃用という悪しき先天的能力に、何とか歯止めをかけることができる方法があります。
それは、「暇」という安静状態を徹底的に破壊(つぶす)していくこと。
すなわち、「暇つぶし」です。
積極的に日常生活に「暇つぶし」を取り入れてあげることで、自然と脳が動くようになります。
まとめ
ぼくはいま20代なのですが、とりあえず70手前くらいまで生きるであろうと仮定すると、いままでの人生をあと2回以上繰り返さなくてはならないわけです。
たしかに、しばらくのあいだは、「仕事」という絶好の暇つぶしの手段に縋りつくことができます。
ですが、休日や定年退職後となると話は別です。
時間に追われず、義務に追われず、だれにも追いかけられない人生。
そんな無為に満ちた寂れた人生を送りたくはない。
そのためにも、やはり「暇つぶし力」を鍛えていくことは、社会をランラン楽しく生き抜いていくための大切な戦略だと思うわけです。