AKITOの思考ノート

あきとの備忘録

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#2【正しい暗記教育について】

 

目次

 

 

今回の記事は、4月5日に書いた「【暗記万歳:暗記できた方が人生楽しいかもしれない】」の続きにあたるものです。とはいっても、書きた事についてダラダラと書いただけなので、特に記事の読む順番などは気にしていただかなくても大丈夫です。

 

 

日本教育の問題は「暗記教育」ではない

日本で行われている暗記教育はマスコミや意識高い系インフルエンサーの批判の的にされがちです。「学校教育のせいで日本の生産性が下がるのだ」、「おれは数学は苦手だったが今はちゃんと社長をやっている」。後者については、極めて例外的な事例を持ち出して自分がしてきた苦労を他人に押し付けている良い例ですね。自分ができれば他人もできると勘違いしてしまういい例です。自分と相手の違いを理解できず、ありとあらゆる事柄を「たたき上げのカッコいい自分」を基準に考えてしまう訳です。

だから僕は、自称・インフルエンサーがあまり好きではないんですけどね笑

話がずれましたので一旦元に戻しましょう。

さて、これまで暗記教育についてダラダラと持論を述べてきました。

すなわち、物事を考えるための基盤を作る上では、暗記作業は欠かせないものです。誰かにアドバイスをしたり、未知の事柄について考えたりする際には、何かしらの前提となる知識が必要になります。その「何かしらの知識」を養うことが学校教育の目的です。とっかかりを作ってあげること、好奇心を持つきっかけを提供することに意義があるのです。ちなみに好奇心を持つ学問は積極的に学び続けることができるので、自然と新しい知識も身に付き、自然とさらに上の学習段階に進むこともできます。

日本教育における大きな問題は、暗記した知識の使い方を著しく誤ってしまっている点です。暗記を推奨すること自体は正しい行為なのに、せっかく暗記した事柄を正しく使えていないのです。時間と労力をかけて一生懸命暗記したのに、その使い道が期間限定のイベントである期末テストや大学受験などに限られてしまうなんて、ほんとうにもったいないですよね。今後は、実際に日々の社会生活や日常生活の中に還元できるような教育を進めていくべきなのではないかと思います。

だからこそのディスカッション授業・グループワーク

最近では、マスコミがひたすらに「コミュニケーション能力」やら「ディスカッション能力」やらを取り上げはじめているので、ついついこれらの能力の習得ばかりが優先されてしまいがちです。よくよく考えると分かりますが、知識も何もない状態で質の高い議論ができるわけがありません。やはり「暗記」は、避けて通れない道です。

しっかりと「暗記」できていることを前提として行うべき授業が、最近話題の「アクティブラーニング」型の授業です。

題材:南北戦争

たとえば、アメリカ史上最大の戦争と言われている「南北戦争」に関して議論してみるのは面白いかもしれません。一般的には、南北戦争の発生要因はアメリカの北部と南部における奴隷制度に対する考え方の違いにあるといわれています。恐らくテレビのクイズ番組に出ている何でも知識屋さんは、南北戦争に関する質問を投げかけられた時に、「1860年代に勃発したし市民戦争です!!」と、高らかに・誇らしげに発言することでしょう。確かに史的事実はそうです。また、この知識が頭にインプットされていること自体は別に問題ではありません。

ですが、その知識が「知識止まり」してしまっていることが非常にもったいないと思う訳です。知識とは、色々な方向に空間的な広がりを持たせることによってはじめて意味を持つ概念だからです。知識を常に使える状態として脳内に置いておくためには、時代や年号、宗教名のみを頭に詰め込んだとしてもほぼ意味がないのです。

抽象論ばかり追いかけていても仕方がないので、南北戦争に対する空間的な広がりを深めていきましょう。まず、どうして南北戦争は起きなければならなかったのでしょうか。北部と南部の間で、奴隷に関する意見の違いがあったからでしょうか。政治体制の違いがあったからでしょうか。実は根本的な原因は、奴隷解放云々ではなく、北部と南部で維持されていた経済構造の違いにあるといわれています。

工業で発展していたアメリカの北部は、労働力として黒人やインディアンを大量に活用したいと考えていました。第二次世界大戦後の日本でもそうですが、急速な近代化と工業化はそれ相応の恒常的な労働力の確保が必要になるものです。一方で、綿の栽培と自由貿易を主張していた南部は、アフリカなどからやってきた奴隷船に乗っている黒人奴隷を人身売買することで、広大な綿花のプランテーション農業を発展させるための労働力を維持することを重視していました。

ここで注意して頂きたいのが、坂本龍馬よろしく英雄扱いされるリンカーンは、「奴隷」という存在を完全に否定していたわけではないということ。北部に属していた彼は、「南部の奴隷を開放することで北部の工業を発展させるための労働力を得ることができるぞ!じゃあいっそ、奴隷解放宣言でも出したろか!」みたいなノリで、人民の~みたいないっちょ前の演説を繰り広げていたのです。つまり、北部も南部も同様に、奴隷という名の便利な労働力を使いたいと考えていたわけですから、奴隷の人権を修復することを目的として南北戦争が発生するわけがないのです。

ちなみにリンカーンは、インディアンの強制移住や大量虐殺なども指揮していた結構な強者です。もちろん、政治的なリーダーシップや国内の治安状況を的確に把握した上での判断だとする見方もあり、これに関する解釈は人それぞれですけど。

americadaishizen.com

どうですか。とりあえず、南北戦争の「原因」という1つ目の広がりを解明することができましたね(個人的にはもっと書きたいのですが、ちょいと我慢)。こういうことについて議論できると、今の中国とアメリカがあんなにまで争っている理由がじわりじわりと見えてくると思います。まあ、米国政権内部ではだいぶ前から中国を競争相手と見なしていたようですが、それに関しては割愛します。

こうして考えてみると、勝利演説と誤解されがちなリンカーンの「奴隷解放宣言」や「ゲディスバーグの演説」は、実は、戦時中に行われていたということもすんなり理解できると思います。戦いに勝利したから奴隷解放宣言をするわけではなくて、戦いに勝利するために、自分自身の主張をアピールする必要があったのです。戦争において自分たちが達成したい事柄をはっきりと明言して、内外の支持をこぎつける必要性があったのです。そもそも「~宣言」というのは、戦争中の国家や兵士を鼓舞するために行うものが一般的ですから、戦争が終わった後に宣言をしたところで特に意味はもたないのです。

暗記した知識が機能的に作用する

さて、ここまでのお話の中で、知識を自分なりにアウトプットすることの大切さや具体的なやり方について紹介してきました。一つ費等の知識を断片的に覚えていては、決して使い物になりません。たとえば南北戦争を、脳内の知識体系における単なる断片的な知識としてインプットしてしまうと、以下のようないわゆる「ダメな暗記」に陥ってしまいます。

みなさん、これらをみてどう思いますか?「だからどうした?」ってなりませんか?

ぼくはこれらの断片的な知識に対して、以下のような疑問を抱きます。

  • なんで1860年代に起きるの?貿易体制の違いが戦争の要因なら、ヨーロッパ諸国で何かあったのかな?
  • 名前だけが一人走りしているけれど、リンカーンは具体的にはどういう業績を残したの?その業績が、現代の政治学などの学問においてどういう役割を果たしているの?
  • 奴隷解放宣言をしたっていうけれど、「奴隷」を「解放」ってどういうこと?解放された奴隷はどうなってしまうの?

しかし、ここまで到達できないのが現在の日本教育。「知識量の多さ」ばかりに重点が逝ってしまい、「知識の使い方」に関する部分の教育が非常に疎かになってしまっているのです。確かに知識を得ることはすばらしいことですし、特に批判すべきことでもありません。新しい言葉とか概念を覚えたり身につけたりすることで、ぼくたちの思考の枠組みを広げることができますからね。ただ真に使える知識を得るためには、学んでいる時に浮かんできた「WHY?」や「HOW?」などの疑問に答え、その答えに対してさらに疑問を投げかけてその疑問に対して答え・・・のような探求心溢れる地道な対話を続けていくしかないと思います。

今回の記事でも書いた通り、「南北戦争」という歴史上における事件を一つ扱うだけで、政治制度や経済の仕組み、貿易体制、統治方法などに関するあらゆる知識を得ることができます。好奇心や探求心に基づいた対話を通して獲得した知識は、一生朽ち果てることのなく自分自身の豊かな思考を支えてくれる一つの武器になるはずです。

ぼくたちが身につけるべき「知識」とは、1対1対応に留まらない、1対多ともいえるような代物なのですからね。