まくら
こんにちは、あきとです。
3月に入りはじめての記事投稿となります。
今月も半月程度も経過してしまいましたが、特に体調不良とかもなく元気です笑。
こういう気楽なペースで記事を書きつづけられるのが、無料ブログの強みですよね。
今回の記事では、最近ぼくが取り入れている「対人関係のストレスをできる限り減らすことができるかもしれないしできないかもしれない思考法」を、がっつり解説していきたいと思います。
ちなみにこの思考法は、巷で流行しているような「周りを気にしない!」とか「他人に期待しない!」、「人生の主人公は君だ!」みたいなありふれた方法ではありません。
また、この方法を取り入れても100%すべてのストレスがなくなるわけでもありません。
ですが、なんというか、この考え方で、ぼくの心が「おだやか」に「楽」になったのは確かです。
ストレス要因
ぼくたちが人間関係にストレスを覚えてしまう原因としては、そもそもなにが考えられるのでしょうか。
いろいろと原因はあるとは思います。
ただ、その根本にあるのは、たぶん「違い(ギャップ)」ですよね。
たとえば、
- 自分が期待していた行動を相手が選択しなかった
- 自分の予測と現実のギャップ
- 意見が合わない
- 意見のギャップ
- マナーを守らない
- マナーにたいする認識のギャップ
とかがあります。
ぼくたちは、互いに「違い」を抱えている動物です。
だからこそ、自分の思い通りに事が運ばないことが多い。
ふとした時に相手にネガティブな感情を向けたりしてしまうのは、ひとえに「自他のギャップ」があるからなのかなと思います。
思考法
だらだら前置きをしてもうっとうしいだけなので、さっそく対人トラブルの根本原因を和らげることができるかもしれない思考法をご紹介していきます。
それは、
- 自分の他者も、それぞれが正しいと考えている言動を選んでいる
- その主観的正しさを互いに押しつけるようなことはしない
というものです。
前者ー主観的正しさ
前者は、とてもシンプルな考え方です。
ベビーであろうと学生であろうと、老人であろうと若者であろうと、囚人であろうとなかろうと、政治家であろうとなかろうと、親であろうとなかろうと
ぼくたちはみんな、そのときに自分が正しいと判断した言動を選んでいるのです。
ここでいう「正しさ」というのは、法的・倫理的な正しさのことでありません。
あくまで、主観的な正しさです。
その言動が、そのときの自分(相手)にとって「役に立つ」、「ふさわしい」ものであればいいのです。
ソクラテスの「だれ一人として悪を欲するものはいない」という言葉とほぼ同義ですね。
たとえば赤ちゃん。
赤ちゃんは、とにかく泣きますよね。
それはたぶん、本能からくる自然な行動です。別に間違っている行動ではありません。
ほかにも、コンビニ強盗をはたらくような犯罪者もそうです。
あくまで犯罪を犯したその「瞬間」のみを切り取ると、彼は、強盗が自分のためになる正しい行動であると思い込んでいたはずです。
強盗はたしかに法的には正しくない行動ですが、当時の彼にとっては正しい行動だったのです。
お気づきの方もいると思いますが、この「主観的正しさ」のずれが、対人トラブルの根本要因です。
じゃあそれを解決するにはどうすればいいか。
その答えが、二つ目のポイントになると思います。
正しさを判定するのは不可能?
大事なことは、それぞれの「主観的な正しさ」にたいして正誤の判断をくだすことがめっちゃんこむずかしいということ。
正誤の判断が「不可能」であるというわけではありません。
法により支配されている社会に生きている以上は、法的に客観的・合理的な正誤の判断をくだすことができる猶予が残されているからです。
たとえば、殺人をした人は、自分が殺人という行為をしたその時点においては、正しい行動を選択したと考えているはずです。
そのあとで後悔することになっても、です。
ただしその行為は、社会的には「間違い」だとして罰せられますよね。
このように、殺人や強盗のようなものは、ある程度は法的に正しさを立証することができます。
ですが、一般的な日常生活でぼくたちが抱えている対人ストレスの大半は、司法がおいそれと介入しておだやかに解決してくれるようなものではありません。
つまり、日常における「正しさ」の相違を完ぺきに解決することなど、まずできっこない。
だからこそ、お互いにお互いの正しさを押し通そうと「しない」ことが大事になるわけです。
後者ー正しさを押し付けあわない
ここで出てくるのが、「後者」の考え方。
自分の主観を相手に押しつけないということです。
相手の行動にイライラしても、それは相手なりに「正しい」ものであると認めてあげる。
いくら自分の考えが正しいと思っていたとしても、それはあくまで「主観的」なものにすぎないからです。
その主観を相手に押しつけるということは、ぼくたち自身も傲慢で強欲な人間になってしまいます。
だってそうでしょう。
「正しさ」には正解など存在しないはずなのに、自分のことは正しいと考え、相手のことは間違いであると一方的に決めつける。
これほどまでに欲深いことがあるでしょうか。
もう一度言いますが、相手は言動を、「役に立つ」「ふさわしい」と判断して選んでいるわけです。
それを根っから否定・矯正しようとするから、ストレスもたまるしイライラもする。
思考法の実践
さてさて、ぼくたちが相手にイライラを覚えてしまったときにすべきことがただ一つだけあります。
それは、「相手は相手なりに正しいと考えたことを選んでいるんだな」と考えることです。
たとえばぼくは、いくら相手の発言や行動にイラ立ちを覚えたとしても、
「なるほど。こいつは~することを正しいと思い込んでいるのか。」
のように、できるかぎり冷静かつ一歩距離をおくような態度をとるようにしています。
だって、相手は「正しい」と思って(思い込んで)いるわけですからね。ぼくの正しさを押しつけるわけにはいかないのです。
例をあげると、歩きスマホでぼくに直進してくるおじさんにたいしてもこの考え方は有効です。
「へえ、あのおじさん、歩きスマホという行為が正しいと思ってるんだな」
すなわち、あくまでそのおじさんにとっては、その瞬間に歩きスマホをすることがこの上なく重要で役に立つ正しい行為なのです。
母親が危篤なのかもしれないし、ゲームの限定イベントがあるのかもしれない。
ストレスは減る(なくならないが)
この考え方を徹底させると、日常生活でぼくたちが直面する数々のストレスを質的に減らすことができます。
量的に減るかどうかは知りませんが、すくなくとも、一つ一つのストレスからもたらされる精神的な負荷みたいなものは減らせると思うのです。
ぼくはこの考え方をはじめて、だいたい一か月くらいがたとうとしています。
もちろん人間である以上、他者の言動にクエスチョンマークを投げかけたくなるような場面に出会うことはゼロではありません。
ですが、いまのところ、そのいずれにたいしても冷静に対処できていますねええ。
対話
もしほんとうに相手の正しさをと自分の正しさとのあいだにあるギャップを取り除きたいのであれば、やっぱり話し合いは不可欠でしょう。
その際には、両者が主張している「正しさ」の背景にあるものを互いに抽出していくことが大事だと思いますねえ。
まあ、ぼくは「話しあい」の専門家とかではないのできれいごとしか言えませんが、まあ、疲れたのでまとめにはいりたいとおもいます。
まとめ
「オレ様化」すればするほど、自分とは違う考えをもつ人にたいして苛立ちを覚えてしまうようになります。
全員がオレ様になってしまえば、それこそ社会は地獄絵図です笑。
そうではなくて、一人一人の人間にはそれぞれの脳みそがある。
それぞれの脳みそには、それぞれの「正しさ」がある。
人の数だけ「正しさ=主観的正しさ」はある。
これは、言われてみればあたりまえのことですが、普段はあまり気にするようなことではありません。
これを意識するだけでも、日常におけるくだらない諍いから離れたおだやかな生活が送れるようになるのかなと思うわけでっす!
雑記と毒親
ぼくはいままで自分の母親のことを、偏差値至上主義で過干渉な毒親であるという突き放した目で見ていました。
しかし、この記事で紹介した「考え方(主観的正しさの多様性)」を生活にとりいれて以降は、親にたいする目線みたいなものがすこし変化したような気がしています。
22歳の大学四年生となった今ふり返れば、ぼくの母親は、彼女自身の信念をもってぼくのことを育てていたのです。
その方法が絶対的・客観的にに正しいとか、間違っているとか、そういう評価を下すことはまずできません。
しかしながら、彼女なりに「正しい」と考えていたこと自体は、事実として認めなければならないと思います。
母親は、彼女自身の正しさにしたがっていたただけなのです。
もしぼくが母親を一方的に否定的な目で見てしまうと、それこそ自分の「正しさ」で相手の「正しさ」を上書きしたり、否定したりしてしまうような状態になってしまう。
独善的になってしまう。
いろいろな正しさをもっている人間が、なんとなく上手いかたちで併存しているのがいまの社会です。
そういう豊かな社会を楽しくおだやかに過ごしていくためにも、今回紹介した思考法が役に立つのかなと思うわけでありまっす!