キラキラネーム
最近世の中を騒がしているキラキラネームとは、生まれてきた子どもに対して、世間一般的には簡単には読めないような訳のわからん漢字の名前を付けることをいいます。色々なコメンテーターや識者の方々は、このキラキラネームの是非を巡る議論を繰り広げているらしいです。
ちなみに、僕の結論はこうです。
この辺りの結論については、記事のところどころでガッツリ説明したいと思います。
究極的にはどうでもよくね
しかし、僕は思う訳です。
自分たちで産んだ子どもにどういう名前を付けようが、どんなに変な名前を付けようが、究極的には親の自由じゃないかと。C国がA国に対して、「内政干渉はやめろよ!」と言っているのと同じように、ぼくたちのような部外者が、キラキラネームをつける「親」に対してあれこれ文句をつけることは少し本質からずれていると思うですよね。
ですが、だからといって周りの子どもがみんな、「ピカチュウ」とか「プロミネンス」とか「コナン」とか「桃太郎」みたいな名前だったら、流石に首を突っ込まざるをえないわけです。親が子供の成長を願って付けるのが「名前」の本質だと思うのですが、これではいったい子どもに対して何を望んでいるのかわけわかりません。桃太郎になってほしいのでしょうかね。
なので、今回の記事は「キラキラネーム」を与えられた子どもが何をどう感じているのかについて、ダラダラと書き綴っていきたいと思います。
めんどい。
子どもは何を感じるのか
キラキラネームをつけられた子どもたちは、3歳くらいまでの間は母親と一緒に家庭で過ごしたり保育園に行ったりして、周りからの保護を与えられながらのびのびと生きてゆくことができます。ちゃんとした理性も発達していない段階なので、自分の名前に対して違和感を持ったり、周りのお友達の名前と自分の名前を比較したりすることもないでしょう。
問題は、自我が芽生え始めてくる小学生とかその段階です。「自分は∼である」というアイデンティティが芽生えはじめてくると、自ずと自分の存在と他人の存在を比較するようになります。
「自分はあの子より足が遅い」
「自分はあの子より勉強ができない」
こういう比較を通して、さらに自分という存在を定義づけていくといわれています。たぶん。
そもそもアイデンティティとは、「相対的」なものです。もしすべての人類がサッカー選手であれば、「ぼくのアイデンティティはサッカー選手である」みたいなことを言う人って誰もいなくなると思います。周りと違うからこそ、相対的に生まれるのが「アイデンティティ」という概念だと思います。
自分の名前の違和感に気付きはじめるのも、ちょうどこの時期です。
他のお友達や先生のの名前はすぐに読めるし特に変な名前でもないのに、自分の名前はなぜかすごい読みづらいことに徐々に気付きはじめます。
この時期に抱き始めた違和感は、中学生や高校生になるにつれてさらに大きくなっていきます。今まで以上に「自我」を形成する成長段階に差しかかるようになるからです。
新年度のクラスで自己紹介をするたびに笑い声が上がることもありますし、友達からからかわれるようなこともあると思います。授業で発言をするために手を挙げても、教師が名前の読み方を間違えることもあるかもしれません。それに対して、さらにクラスの一部が笑い立てるようなこともあるでしょう。
ただ、こうした差別的な行為が行われるのも、恐らくは大学生の頃までだと思います。社会人になってまで人の名前に対してこじつけをするような人はかなり少ないでしょう。
相手の人を、名前や外見、国籍、肌の色などといった「属性」のみで評価・判断するような短絡的で低能な社会人はそうそういないでしょうから、社会人になって以降は、いかにキラキラネームが受け入れられるかどうかが重要なのではないかと思っております。
キラキラネーム自体が悪いわけではない
ただ、キラキラネームをつけられた子どもの全員が、自分の名前に対して嫌悪感を抱いているわけではないと思います。あるいは全員が、自分にキラキラネームを付けた親に対して憎しみの感情を抱いているわけではないと思います。そんな統計調査見たことありませんし。
悪いのはキラキラネームそれ自体ではなく、親がそのキラキラネームに、社会的に合理的でかつ妥当性があり、子どもがその名前を受け入れて暮らせていけるような「想い」を込めなかったことに問題があると思う訳です。
常識的な「名前」を付けないことに問題があるわけではなく、常識的な「理由」に基づいて名前を付けないことに問題があるのではないでしょうか。
ここで議論を一本化してしまうとよろしくありませんので、2手に分けて考えてみたいと思います。
親の短絡的な遊び心でつけられた名前
教養も常識もないような親は、自分がつけたいと思う名前を半ば強制的に自分の子どもに与えてしまいがちです。漢字学者でも読めないような「当て字」を用いることがカッコいいと考えてしまうような親の場合は、とにかくカッコよさとか物珍しさを追い求めて子どもの名前を考えてしまうことでしょう。
こういう、想いのこもっていない、親の単なるわがままによる被害者となってしまった子どもは、日々を生きていく中で何を考えるのでしょうか。まともな想いもこもっておらず、さらになんて書いてあるか読めないような名前。もし僕がこの子どもの立場だったら・・・。
ああ、いと悲し。
「社会的に」みて想いのこもった名前
一方で、親が子どものことを真剣に想ってキラキラネームを付けた場合は、話が変わってくるかもしれません。
親は、誰に対しても、子どもの名前やその名前の語源を堂々と打ち明けることができる。また、子どもに対しても、自分たち両親がその名前を付けた背景やその時に抱いていた感情、その名前に込められた意味を堂々と物怖じせずに説明することができる。こういう場合は、たとえその名前がキラキラネームであったとしても、周りの外野や識者面した大人たちがガヤガヤ騒ぎ立てる必要性はないと思う訳です。
やっぱり書きたい、親御さんへの意見
親のことについてあれこれ言及するのは避けたいのですが、でもやっぱりぼくなりの意見を書いておきたいかなと思います。
結論から言うと、キラキラネームをつける親は、「いつまでも自分の子どもが自分の手の中にあり、いつまでも自分の子どもは幼い子供のままなのだ」と勘違いしちゃっているのではないかと疑っています。つまり彼らは、子どもが社会に出て一人で生活していくことはないと勘違いしているからこそ、自分だけが満足できるような「ネタ」のような名前を付けて自己満足に浸ってしまっていると思う訳です。
通常僕たち人間は、小学生や中学生、高校生を経て、働いたり大学へ行ったりして、どんどん社会における活躍の場所や社会との接点を増やしていきます。小さい頃は一人でできなかったことでも、年齢を重ねるにつれて、自分だけの意思とか判断で行えるようになります。少しお硬いお言葉で書かせていただくと、権利能力や意思能力、行為能力が与えられるようになってくるわけです。
将来社会に出て色々な人に会ったり、沢山のお仕事を経験したりすることが分かっていれば、一般的・常識的に考えて不適切な名前を子どもに与えるわけにはいきません。それにもかかわらず、ろくに想いも込められていない「ネタ」のような名前を付ける親がいるとすれば、それは彼らの自己満足なのではないかと思う訳です。
と同時に、僕は思います。
こういう親こそ、哀れで惨めな可哀想な人なのではないかと。自分の子どもに対して「ネタ」のような名前しか与えることができない。そこには社会的に妥当な「想い」すら存在せず、単に自分の価値判断のみを基準としてしか物事を判断することができない。本当にかわいそうなのは、子どもではなく、子どもの親なのかもしれませんね。
「アダムスミス」いわく「見えざる手」が結論を下す
キラキラネームを付けられる子どもがこれからも増えていくのか減っていくのかは、おそらく誰にも分からないと思います。世の中にどういう親がどれくらいいるのかもわかりませんし、「ネタ」のような名前を付けることを何とも思わないような惨めで哀れな親もどれくらいいるのかわかりませんからね。
ただ個人的に考えていることがあります。
それは、「最終的には市場原理が働く。需要があれば増えるし、需要がなければ減るだけだ」ということです。
社会がキラキラネームに対して寛容になり、そこら中の子どもたちの名前が「ルシファー」とか「エピクロス」とか「ガネーシャ」のような当て字漢字で溢れかえってくるならば、恐らくキラキラネームをつける親も増えてくると思います。反対に、キラキラネームをよしとしない意見が圧倒的に社会的多数派を占め、キラキラネームを社会から排除するような動きが見られるようになれば、キラキラネームをあえて付けるような親は少なくなるでしょう。
結局最後は、アダムスミス様曰く、神の「見えざる手」にお任せをするしかないようなのです。