AKITOの思考ノート

あきとの備忘録

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#7 リベラルは過信家?-アフガンの事例から

ぼくは大学入学後4年間、国際政治というとても抽象的な学問を勉強してきたのですが、結局どういう価値観が身に付いたのかよくわからないまま大学を卒業しそうです。

まあ、大学ってそういう場所であるべきだとも思います。実学とか即戦力とかそういうことばかりを重視するんじゃなくて、自分の興味があることをとこと極める4年間の方がぜったいに楽しい。

さて、そんなこんなで卒業へ向けたラスボスである卒論と格闘しています。

今回は卒論を書いている途中で浮かんできた「リベラル」な考えにたいするぼくの考えを書いていきたいと思います。

ほんとは、「ぼくの「個人的な」考え」と書きたかったのですが、「個人的な」の部分はすでに「ぼくの」の中に含まれているんですよね。だれかに自分の意見を批判されたり反論されたりしたときの逃げ道として「個人的」というワードを使う人が多い気がしますが(ぼくも)、そこまで怯えなくてもいいと思います。個人的には

リベラルな人について

最初に、僕が感じるリベラルな人のイメージを紹介します。

政治学のド素人の一つの意見として、穏やかに受けとめていただけたらうれしいです。

世間で言われているいわゆる「リベラル」な人たちとはすなわち、自分に過剰に自信があって、論理的に導き出されたことはすべて正しいと考えており、自分が正しいと思い込んでいる考えを他人に押しつけたがる人だと思います。

一方で彼らは、今の社会における問題点をいち早く察知して、それを政策や法改正という手段を通してはやめに改善していきたいという考え方も持っています。女性にたいする賃金や育休における不当な差別や、社会の格差を縮めなければならないという考えは、いわゆるこういう方々からうまれてきているようです。

リベラルへの批評

リベラルというとわかりづらいので、「進歩主義」的な考え方をもつ人と言い換えたほうがわかりやすいかもしれません。ただ、文章の中に漢字が増えてしまうと読みにくくなってしまうので、ここではカタカナの「リベラル」を使いたいと思います。

リベラルな人は、とても「合理主義」で「効率主義」です。

合理的ではないものを嫌うので、人間であれば誰にたいしても平等に接しなければならないと考えている人が多い。

だから彼らは、LGBTQQIAAPPO2Sの人の権利は寸分たりとも保護しておかなければならないと主張したり、男女の権利は完全に平等かつ公正にしておかなければならないと考えたりしていることが多いです。

すぐに「耳当たりの良い言葉」通りの社会を実現したがります。

たとえば、心が女性である人であれば、たとえ男性的な肉体を持っていても女性トイレを使うべきだと主張します(オバマ政権)。

また、いかなる差別も嫌うので、同性婚の人の結婚式でつかうケーキの提供を宗教上の理由から拒む人がいたら、彼を「差別主義者」と認定します。ちなみにこれは、アメリカの事例です。

カトリックに忠実なケーキ屋さんの店主は、結婚式で使われるウエディングケーキの作成に長年たずさわっていました。ある日同性婚の結婚式をあげたいカップルがケーキづくりを依頼しましたが、彼は断りました。同性婚は、カトリック信者にとってあまり相容れない考え方だからです。ぼくてきには、自分の考えにもとづいて自由にビジネスをする自由が認められている方がいいと思うんですけどね。

なぜなら、アメリカの法律では「差別は禁止である」という文言が書き込まれてしまっているからです。

さらに効率が悪いものは嫌いなので、日本のあらゆるところからハンコをなくしたがりますし、エコじゃないものは温暖化対策として非効率的だとして切り捨てようとします。

だから彼らの考えはコロコロ変わります。軸がないからです。

原発についてエコだといったかと思えば、全ての原子炉を止めるべきだといいはじめる。太陽光がエコだといいはじめれば、気付けば環境破壊につながるといいはじめる。

極めつけに彼らは、ヨーロッパやアメリカでもてはやされている価値観が大好きです。

彼らは、ヨーロッパやアメリカの話をすべて日本にあてはめようとしますから、「エコ」や「ミートゥー運動」みたいな社会的運動に共感します。

共感するのは個人の自由なのでいいのですが、「ミートゥー運動」への共感を他人にも強制しようとすることもありますし、興味を示さない人にたいしては、「自分勝手」というレッテルを貼ることもあるようです。

過信家であるリベラル人

こういうリベラルな人は、人類の知性を絶対的なものであると崇めており、自分の正しい考えかたを知らない人には啓もう活動をしたがります。

だからこそ「おせっかい」であり、「過信家」なのです。

「人権」や「環境保護」、「民主主義」という言葉が大好きです。

中には、全ての国の統治体制を「民主主義」にしたがる人もいます。

たとえばアメリカは2001年、民主主義こそが人類のたどりついた最高の統治体制と考えて、アフガニスタンにあったタリバンという政権を無理やりぶち壊しました。

当時のブッシュ大統領共和党でしたが、他の国へ干渉するのが好きだったのでしょうか。あまり詳しくないので、わかりません。

さて、20年後、アフガニスタンには何が残ったでしょうか。

タリバン政権が残ったのです。

アメリカは、連綿とつづく長い歴史の中で築き上げられてきた「イスラーム文化」にもとづく統治体制を否定して、強制的に民主主義体制をぶち込もうとしました。

数百年もつづいてイスラーム的な統治体制を、たった20年という短い時間で民主主義体制に切り替えることができると考えてしまうところが、とても傲慢だと思います。

押し付けてはならない

もちろん、民主主義がすばらしいと思うのは人の自由です。

人権を尊重したがるのも人の自由です。

ですが、それを人に押し付けてはならない。

それぞれの国にはそれぞれの地理的な特性があり、歴史的な文化があり、政治的な対立があります。

ぼくたちはそれを敬うべきです。尊重するべきです。

もちろん、他の国に多大な迷惑をかけていたり(中国共産党)、国内で劣悪・残酷な人権侵害が行われていたりすれば(かつてのカンボジアにおけるポルポト政権など)、周りの国は手を差しのべる必要があります。他の国と協力しながら対応策を考えていく必要があります。

リベラルの代名詞「多様性」とは

そして、リベラルな人が好んで使う「多様性」という言葉。

多様性とは、個性があってはじめて成立するものです。

いろいろな宗教や言語、考え方、家族制度、産業、地形・・・。それぞれに個性があるからこそ、多様性が生まれるのです。

個性がない世界には多様性がありません。そこにあるには、全体主義です。

全体主義とは、ある社会における偉い人の考え方を取り入れて尊重するように強制されるような統治体制のことで、そこに言葉や行動の自由はほぼないといわれています。国のために、自分の生命や財産の価値を否定しなければならないことも多くあります。

それなのにリベラルな人は、国民をオンリーワンの考えのもとに誘導したがることが多いです。

啓蒙したがる人が多いです。

やれ民主主義、やれ太陽光、やれマイノリティーへの保護。

そして、もう少し冷静になってほしいのです。

今の制度が作られた背景にはどういう意図・目的があるのか、どうしてその制度が必要とされたのか、今の制度を変えたら何がどうなるのか、制度を変えて困る人はいないのか、制度を変えて生まれるデメリットをきちんと予測・対策できるのか。

耳当たりがよくて、心地がよい言葉ほど、騙されやすいものはありません。

たしかに、リベラルな人、進歩的な考えを持つ人がいるから、社会は進化してきました。それは否定しません。

ですが、行きすぎたリベラルは人間や国の「個性」を破壊します。個性が破壊されれば、リベラルな人が夢見る桃源郷「多様性のある世界」は永遠に訪れません。

おわりに

今回は、リベラルな人について僕が思う考えを書いてみました。素人が書いたことなので批判的な意見や反対意見も多くあるかもしれません。

リベラルな考えは確かに社会には必要なのですが、今考えが度を越えすぎると大変なことになります。そして、アメリカとか日本の現状を見ていると、過剰なリベラルな考え方にちょっとした違和感を抱いているのです。

今度の記事では、「保守」に関するぼくの考え方も書いていきたいと思います。