AKITOの思考ノート

あきとの備忘録

板チョコレートは一日一枚

#25 ぼくが運動するのは「自然と一体化」したいから

まくら

研究所流出説が本格的に疑われはじめているコロナウイルスパンデミックから、そろそろ2年とかそこらが経とうとしています。

通勤や通学の機会が減り、オンライン授業やテレワークをする機会も格段に増えました。

おかげで、

「座ったまま朝食を食べて、座ったままお仕事をして、座ったままカップラーメンを食べて、座ったまま夜ご飯を食べて、寝ながら寝る」

という、「わたし、太ります!」宣言をしているかのようなライフスタイルを確立させてしまった方もいるようです。

一方でぼくの場合は、座ってなにかひとつの作業にもくもくと取り組みつづけていると、なんかイライラしてきてしまいます。

ずっと座っていると、からだ全体が重くなるような気がするんですよね。

身体のいたるところのマッスルが冬眠し、血液がドロドロのグチョングチョンになるからだと思います。

ぼくは小学生のころからサッカーや体操を習っていたこともあり、身体を動かすことにこの上ない快感を覚えます。

今回は、ぼくが毎日何かしらの運動をつづけている理由について、いろいろと書いていきたいと思います。

自然と一体化したいから

宗教ではない

もう、理由はこれに尽きます。

別に宗教とかではないんです。

ただ単に自分のマッスルをいじめて、心臓のポンプに活を入れて、肺にガンガン自然の空気を送り込む。

こういう状態になれば、もうぼくたちは自然と一体化することができています。

なぜなら運動するということは、生命活動という普遍的な自然の摂理にバカ正直にしたがうことだからです。

自然のはたらきのままに身を任せて、自分の中に眠る筋肉や血液を、自然の意のままに鍛えたり、浄化したりする。

それが、自然と一体化するということなのです。

気づいた方もいると思いますが、これは、当たり前のことを小難しくいっているだけですよ笑。でも、そうでもしないとオリジナリティのある文書なんて書けないじゃないすか

人工物とは一体になれない

ブラジル人とすぐに連絡を取れたり、アフガニスタンの戦争をリアルタイムで見ることができるぼくたちは、一日の内のほとんどの時間を、あたまの良い人によって作られてきた人工物とともにすごしています。

てか、地球の反対側で起こっている戦争を見てなにがしたいんですかね。刺激が欲しいんですかね。野次馬根性なんですかね。

 

つまり普段のぼくたちには、自分というからだの外にある便利な物質的世界にしか集中することができていないのです。

しかし時計やスマホ、カメラなどの人工物は、所詮人工物です。母なる地球システムをつかさどる自然の力より優れているものではありません。

人工物に依存する生活をつづけていれば、自然の摂理にもとづく生命活動の質も下がる

結果として、からだの質そのものが低下してしまうわけです。

じゃあどうすればいいのか。自然(活力あふれる生命活動)と一体化するために、靴を履いてそのあたりをひとっ走りすればいいんですよ。

200メートルも全力で走れば、もう自然と一体化してしまいますから笑。

50回のバーピーもいいですね、立てなくなりますけど。

新しい生命の息吹

宗教ではない

また宗教っぽいWordが出てきましたが、断じて宗教ではありません。

まあ、ぼく自身自然にたいする信仰心は篤い方だと思うので、100%宗教ではないと言い切ることはできないかもしれませんが・・・。

排出と浄化、そして吸収

さて、運動をするということは、自然と一体化することだという話をしました。

一体化するということは、からだの中にたまっている使い果たした廃棄物を体外に放出して、自然にただようまあまあ浄化されたあたらしい空気を吸収するということです。

簡単に言うと、ごみを出して、新品をもらうってことです。

ちなみにこれ、お金がかかりません。

ぼくたちが資源ごみや粗大ごみを出すときって、出す場所や料金が指定されていますよね。

汚いものを外に出すわけですから、それ相応の社会的な負担を被らなければならないのはあたりまえです。

でも、自然と一体化するためにする呼吸は、どこでしてもいい。二酸化炭素の排出のためにお金を払う必要なんて微塵もありません。

自由にごみをガンガン捨てて、すきなときにピカピカの栄養素をグングン吸い込めばいいわけです。

マッスルと血液を適度にいじめてあげれば、体内をめぐる血液の質やその流れがよくなり、勝手に浄化作用もはじまるわけです。

これが、なんと無料。空気は公共財!

こんな恵まれた話、聞いたことありますか。

これからも一体化するぼく

運動をしなくて後悔した人を見たことはありますが、適度な運動をして後悔している人を見たことがありません。

人間にとって運動は、古来からからだに染みついてきた本能的な意思なのかもしれません。

「うごく」「もの」と書くように、動物は動いてこそその真価を発揮することができます。

ですが最近の社会では、動かない世界こそがすばらしいものであるという価値観が染みついてしまっています。

そのおかげで、人間という動物のために進化してきた筋肉や肺などの画期的な生命システムがだんだんと廃れていってしまうのではないかと危惧しています。

ぼくは自分の身体で歩き、食べ、寝て、死んでいきたい人間なので、これからも自然から与えられたシステムの中で、自然に正直に生きていきたいと考えています。

あ、ちなみに、スピノザっていう哲学者も同じようなことを言っていましたね。