まくら
こんにちは、あきとです。
なんか最近のぼくは、自分で決めたルールで自分を苦しめてしまっていることが多い気がするんです。
週に何回運動をしなければならないとか、朝起きたら英単語をいくつ勉強をしなければならないとか。
あるいは、一日に何回食事をしなければならないとか、どういうものをどれくらいとらなければならないとか。
自分の生活を「科学的」によくしなければならないという試みのおかげで、逆に自分の生活が窮屈になってしまっているのではないか。
最近、そう考えるようになってきたのです。
便利さと窮屈さ
ありとあらゆることが近代化されて、ぼくたちの暮らしが日々便利になっていくのを感じる今日この頃ですが、果たして日常生活の「合理化」は一般庶民にとってほんとに幸せなことなのでしょうかね。
正しいことや間違っていることが「合理的」に判断される世の中。
政府にしろ学校にしろ会社にしろ家族にしろ、あらゆることが「組織的」に構築されている世の中。
近代化された世界では自由に便利に暮らせるようになったといわれることが多いですが、実際はその逆もありえるのかもしれません。
だって、そうじゃないですかね。
まあたしかに、言論の自由とかそういう系の自由は保障されるようになってきました。
ポリこれみたいなラディカルな動きを除けば、日本でもいろいろなことをかなり自由に発言できますからね。
ですが、世の中の専門化と複雑化は、逆にぼくたちの生活を縛るような結果をもたらしていると考えることもできると思うのです。
会社や学校、健康意識などがいい例ですね。
最近は「自由」を標榜する会社や学校も増えてきましたけど、いまだ少数派です。
最近高まりを見せている健康意識についても、実はぼくたちを不自由にしている概念なのかもしれません。
朝ご飯においしいトーストを食べようと思っても、最近読んだ本の中に朝食抜きの健康法が紹介されていたことを想起してしまい、結果的に好きなものをおいしく食べられなくなってしまうとか。
昔から白米が好きだけれど、糖質制限のような医学的な健康法が市民権を得たことで、糖質のような好物を食べることにたいして罪悪感をもつようになってしまうとか。
一見自由に暮らしているのかのように見えて、実はシステムにはめ込まれている。
世の中を便利に自由にしようという試みが、逆に世の中を複雑・専門的にしてしまい、システムの中で巧みに暮らしていかなければならないという思い込みに拘束されるようになる。
このシステムというのは、学問とか政治とかいろいろなことを含みます
これって、実は窮屈なことなんじゃないのかなと思うわけです。
合理化=楽しい?
自分で自分のことを自由に支配することができるということは、自分のことを「縛りすぎてしまう」ことにもつながるということです。
この傾向が強い人は、あらゆることを「合理的」「理性的」に判断しなければならないと思い込んでしまっている節がある気がします。
合理的か否かの判断基準は、「自分」よりも「外部の目」にあります。
自分がどう感じるか以上に、周りから見ていかに規則的な振る舞いをしているかどうかが重要事項になるのです。
早起きは科学的に健康なのか、朝食の摂取は栄養学的に健康なのか。
英語は勉強しなければならないのか、運動はどれくらいやらなければならいのか。
偏差値は50を超えなければならないのか、学歴はなければならないのか。
血糖値は常に正常でなければならないのか、無理に下げなければならないのか。
・・・
このように、日々の生活を「合理的」にマネジメントしようとすればするほど、ぼくたちの生活は加速度的に窮屈になってしまうのではないでしょうか。
自由になるためのルール
じゃあ、人は自由になれないのかといえば、僕はそうは思わないです。
そもそも自由とは、自分を押さえつけている殻(欲望・目標)を自力で打ち破ることができた瞬間に感じるものです。
自分を押さえつけるものがなにもない状態こそが自由であるという方もいますが、個人的には、それは違うと思います。
自分のことを縛っていた殻から抜け出ることができたからこそ、自由を手に入れたことを自覚できるようになるのです。「自分は自由なのだ」と、快哉をあげられるようになるわけです。
たとえば、食欲もそうですよね。
「食べたい!」という欲望の殻に押さえつけられている限りは、その人は自由ではありません。
でも、実際に食べたいものを食べることで、「食欲」という殻を見事破ることができれば、その人は自由を感じることができますよね。
そういうことです。
「殻」を破ることで自由を意識できるようになる。
これは余談ですが、この殻は、できるだけ具体的でわかりやすい方がいいと思います。「地球平和」という欲望はたいそうご立派なものではありますが、あまりにも抽象的です。わかりにくい殻(目標)だと、いつその殻を破ることができたのかにすら気づくことができないかもしれませんね。
逆にいうと、自分がどういう「欲望の殻」につつまれているのかを自覚しない限りは、絶対に自由にはなれません。
だって、破るべき「殻」がないのですから。
夢も目標もない人が自由を意識することができないのは、このせいでしょうね。
ぼくの場合
こういうことを考えてみると、複雑化・専門化した世の中においても、いろいろと試行錯誤することで自由になれるような気がしてきませんか。
たとえばぼくは、毎日英単語の勉強をしています。
これは、近々受験予定のTOEICでいい点を取りたいという「欲望」があるからです。
たしかに英単語を毎日コツコツと覚えていく作業は楽しいものではない。
でも、自分が打ち破りたい具体的な殻があるからこそ、日々努力することができています。
その目標という殻を打ち破ることができた瞬間に、ぼくは自由を感じることになるでしょう。
ただ、運動については、具体的な目標をもちづらいのが欠点です。
いまのぼくは特段太っているわけでもないし、ガリガリでもないし・・・。
近々、何かしらの殻を見つけたいのですが、うまく見つけられる気がしませんねえ笑。
まとめ
今回の記事では、ぼくが普段感じている「窮屈さ」をテーマにしてみました。
なぜ自分は自分の暮らしに窮屈さを感じているのか、どうすれば自由を感じられるのか、ぼくなりにいろいろと書いてみました。
別にぼくは、便利になって暮らしやすくなったいまの世界を壊したいとかそういうラディカルなことを考えているわけではありません笑。
なんというか、過度に「科学的」だとか「合理的」みたいな堅苦しいルールに従属してしまうような暑苦しい人生を過ごしたくないだけなんです。
そのためにも、やっぱり自分で自分だけの殻をつくりあげることが大事なのかなと思いますね。
雑記
さて、そろそろ新社会人としてデビューする日が近いのです。
毒親解放記念日をいつにするかはまだ決めていないのですが、決まり次第ご報告したいですね。
あ、別にぼくは母親が嫌いなわけではないんですよ。
育ててくれたという事実には感謝しています。
現にこうしてブログをかけているのは、親が長年にわたってぼくに投資してくれたおかげですからね。
ですが、その育て方とか、教育方針とかに疑問を抱いています。
辞書で殴ったり常に不機嫌だったり突如家出したり。
深夜二時まで計算問題を解かされたり、朝6時から基礎トレという塾の教材を解かされたり。
知る人ぞ知る、サピックスの基礎トレですね笑。あれ、マジで嫌いでした笑
まあ、彼女なりには正しい教育をしていたつもりなのでしょうが、ぼくは一生彼女の卑劣な教育虐待を許すことはないと思いますね。
感謝すべきことは感謝するし、許せないことは絶対に許さない。
そういうメリハリは大事だと思いますねねえええ。