AKITOの思考ノート

あきとの備忘録

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【ミニマリスト疲れ】手段が目的化する現代版ミニマリスト

こんにちは、あきとです。

ミニマリストとは、自分が心から大切に思えるものを取捨選択して充実した人生を過ごす考え方(=ミニマリズム)を体現している人のことを指します。彼らによれば、物の数と幸せは比例しません。逆に、一部には物が少ないほど多幸感を味わえる方もいます。

しかし、本当にそうでしょうか。効率を重視し、無駄を省いて合理的に組み立てられた人生が心から豊かな人生といえるのか、ぼくは少し疑問に感じてしまいます。

今回は、ぼくが現代の(自称)ミニマリストに対して抱く想いや違和感について書き残したいと思います。

ミニマリスト

先述したように、本来のミニマリストとは、ミニマリズムを体現している人を指します。自分が大切に思う物を選び、それに囲まれて暮らす。自分に不要なものは身の回りにおかない。そんな生活は確かに、身も心も幸福感に満たされることでしょう。

手段の目的化

しかし最近は、ミニマリズムの手段が目的化している方が増えているように感じます。

すなわち、物を減らすこと、あるいは病的なまでに物を処分することです。結果として、所有物が少ない自分の珍奇性に陶酔して、それをアピールすることが目的になっている例が増えている感じがします。

所有物の処分は、本来は充実した実りある暮らしを実現する手段にすぎません。しかし、これが倒錯すると、所有物の処分が「目的」になり、断捨離に異様なまでに心血を注ぐ事態を招いてしまうおそれがあるのです。

ミニマリスト疲れ

所有物が少ないことに価値を見出し、その処分に過激な労力を割いてしまう。過剰な断捨離を続ければ、おそらく部屋は徹底的に合理化されます。

たとえば、ソファもなくテレビもない。必要ではないからです。

趣味のフィギュアもグッズもない。必要ではないからです。

こうした部屋は確かに空間に余裕があり、整理も隅々まで行き届いていることでしょう。一方でこの部屋は、一切の無駄を排除して組み立てられた合理性と効率性の極致ともいいかえることもできます。無味乾燥で、閑散として、味気ない殺風景な風景になります。

この部屋で暮らす人生は、喜びと充足感に満たされた人生といえるのか。気づくとこの部屋からは、心休まる要素が欠落し、しまいには、心も身体もじわりと疲弊してしまうのではないか。もしそうであれば、この部屋はミニマリズムが目指す理想とは対極的な姿といえるのではないでしょうか。

もちろん、閑散とした空間に喜びを見出せる人に異議を唱えたいわけではありません。無理をして部屋から物を減らす一部の人に疑問を投げかけたいだけです。

原点回帰

ミニマリズムは過剰な所有物の処分を奨励する思想ではありません。

自分が価値を感じる物には揚々と投資をして、自分が価値を感じない物は身の回りから極力排除する。所有物を選別して、自分に大切なものを具体化し、時間や空間及びお金を自由に使えるようにする。その姿を目指す思想が、ミニマリストだと思います。

ミニマリストになるために、物の処分は必ずしも必要ではありません。必要なのは自分の心との「対話」です。

手段が目的化すれば、処分が一義的な価値になり、部屋や所有物からは個性や魅力が失われてしまう。合理性と効率性を追求する個性のないミニマリストは機械同然です。無機質で味気ないロボット同然です。

ミニマリストに憧れるなら、価値観という自分の軸だけは手放してはいけません。目指す姿は機械ではなく、個性的で人間味のあるミニマリストだからです。

ミニマリストの数だけミニマリストの形は存在します。そこに正解はないのです。