AKITOの思考ノート

あきとの備忘録

板チョコレートは一日一枚

#39 憲法は「理想と現実の橋渡し」

こんにちは、あきとです。

去年10月に行われた衆議院選挙で、今の憲法の一部を改正することを望む政党が議席の三分の二以上を占めたことで、いよいよぼくたち国民のあいだでも、改憲へのボルテージがじわじわと高まってきたような気がします。

ぼくだけですかね笑。

維新の松井さんがおっしゃるように、「やるやる詐欺」だけはやめていただきたいですけれども。

今回は、ぼくの考える「憲法観」についてだらだらと書いていきたいと思います。

理想と現実の橋渡し

憲法という言葉を一言で定義しようとするときに、現実主義者のぼくは、「憲法とは理想と現実の橋渡し」だと述べるようにしています。

憲法に書かれてあることは、憲法がつくられた当時目標とされていた国家の「理想像」です。

また、その理想像を体現するための決まりごとです。

では、何のための理想像であり、何のための決まりごとなのでしょうか。

それは、いまだその理想を達成できていない現実社会を変えていくためです。

日本国憲法

戦後日本の理想

たとえば今の日本国憲法は、1947年の5月に施行された大変歴史あるものです。

1949年からの浅薄な歴史しかない今の中国王朝よりも古いのですから、日本国憲法の古さには驚きますね。

当時の憲法は、戦後日本社会が歩むべき道を丁寧に指し示すことを目的につくられました。

  • 戦争はしてはいけない
  • 人の思考・行動の自由を不当に奪ってはいけない
  • 義務教育を無償にして教育の平等化を図る

などなど、戦後日本が良い国家として成長していくために必要な大事な要素がたくさん組み込まれていたわけです。

アメリカにはちょっとばかし感謝です。

たしかに今の憲法は、アメリカからの押し付けだといわれることもあります。

が、当時日本がアメリカに対抗できるすべがなかったのだから、今更そんなことをほざいても仕方がないですね笑。

ていうか、一国家のために憲法までつくってくれたアメリカにちょっとばかし失礼な気もします、「押し付け」みたいなことばかり言ってると。

理想は変わる

ですが、問題があります。

それは、「理想」とする国家像は時代とともに変化するということです。

たしかに戦後日本においては、一切の戦力をもたないという国家像が理想的だったかもしれません。

安保をアメリカに放り投げておけば、日本は経済成長に専念できますからね。

おかげで、焼野原だった日本は、いまでは立派な経済大国です。

ですが、現在の国際情勢にかんがみると、果たして安保をアメリカに放り投げるような姿勢が理想であるといえるのでしょうか。

エボラ出血熱のような高致死率の伝染病が流行したときに効果的な対策をとることはできるのでしょうか。

やたと「権利」や「自由」ばかりを喧伝するいまの憲法で、これからの社会を生き残ることはできるのでしょうか。

70年前の理想にとらわれたままで、物理的・思想的・サイバー的な外部侵略に耐えることはできるのでしょうか。

現実

爆撃物を放射しまくる北朝鮮と、歪んだ歴史認識に彩られた韓国、世界中華帝国の実現に向けてその歩を止めない中国という問題児に包囲されてしまっている日本にとって、いま実現すべき本当の理想の国家像とはどういうものなのでしょうか。

たとえば、国民の生命や財産を自力で守り抜くための戦力を、「正当」にもつこと。

侵略から身を守るための力を蓄えておくこと。

いわゆる「脱呪術化」の手段としての教育を、国民にあまねく提供できるための制度を充実させること。

義務教育のみの無償化に限定しないこと

このようなことこそが、改正される憲法に盛り込まれるべき内容だといえます。

日々直面している目の前の現実社会が変化しているのであれば、それに柔軟に対応していくために参照されるべき国家の理想像もアップデートしていかなければならない。

ここでいう国家の理想像とは、「憲法」のこと。

アップデートとは、「改正」のこと。

すなわちいまの日本社会に必要なのは、千変万化する環境における生残力を限りなく高めるための、また、国家の財産である人材育成の地盤を強固にするための「憲法改正」なのです。

理想が変わらない=進化しない

日本は、70年以上も国家の理想像が変わらない稀有な国であるといえます。

理想とする姿・目標とする姿が一向に変わらないということは、いまだ日本は「進化していない」ことと同義です。

進化しているならば、理想像は漸次的にアップデートされているはずですからね。。

しかし実際問題、日本は進化している。

いや、たとえ進化していないとだれかが強弁したとしても、日本の「周囲」は疑いようがない形で進化しつづけています。

中国の軍事力、北朝鮮の軍事力、韓国の詭弁力・・・。

周囲が変わっているのに自分が一切変わろうとしないなんて、怠惰であり惰性であり愚劣極まりない考えだと思います。

まとめ

まあ、いつまで70年前の理想にしがみついていれば気が済むのでしょうか・・・。

護憲運動の人たちは、たしかに「戦争はだめだ」と思っていることでしょう。

それはぼくもそうですし、改正派の多くの人もそうでしょう。

ですがそのための手段として、「戦力を一切もたない」のか、「脅威に対抗するための自衛力を蓄えておく」のか、意見の分かれ目があるようです。

しかしぼくは問いたいです。

中国が、戦力も持たないような無防備な国にたいして、優しい姿勢を貫き通すと思いますかと。

北朝鮮が、ミサイルをぶち込んでも何も言わない国にたいして、穏やかな姿勢を貫き通すと思いますか。

アメリカが、国債を買わせてもなにも文句を言わない国にたいして・・・。

雑記

本を読むときにぼくは、一度に数冊の本を並行して読んじゃう癖があるんですよね。

並行して読んでいる時間を一冊に注ぎ込めば、その分読み終われる冊数も増えるとわかっていながら、いろいろな本に次から次へと浮気してしまう変な癖があるのです。

まあ、それも一つの「読み方」だと思うのですが、いかんせん、一冊の進行スピードが遅くなってしまうのがネックです。

今度やってみたいですね、一冊の本だけに時間を注ぎ込むという実験を。

 

#38 祝・脱卒論

こんにちは、あきとです。

ちょうど昨日の午後五時ぐらいに、就活が終わってから約半年以上にわたって格闘してきた卒業論文を完成・提出することができました。

書くのにかかった時間が半年ということなので、情報収集とか文献集めみたいないろいろな作業を含めると、完成までにかかった時間は延べ一年くらいですかね。

数少ないぼくの同級生の友達のなかには、大学三年のころからせっせと準備してきたような強者もいました。

寂しいしうれしい

ぼくはそもそも、文章を書くこと自体は嫌いじゃないんですよね。

コツコツと一文一文を積みあげていくと、気づいたら壮大な段落が完成していくわけじゃないですか。

こういういわゆる、「コツコツ何かを作る」ことがぼくの趣味でもあるので、卒論のような作業も特別苦しいわけではありませんでした。

この点でぼくにとって卒論の終了は、すこしだけ寂しいものにも感じられるのです。

一方で卒論には、二つの壁があります。

「締め切り」と「厳格な体裁の厳守」という関門です。

前者のせいで、大学側が定める日時までにすべてを仕上げなければならないという緊張感におそわれます。

また後者のおかげで、たとえ完成したとしてもどこかに何らかのミスがあるかもしれないという変なプレッシャーにさいなまれることになります。

なので卒論の完成は、なんだかんだいってぼくの精神を緊張から解放してくれるありがたいイベントだということもできるわけです。

寂しいけれどもうやりたいとは思えない、そんな経験でした。

文字なんて、ブログでかければ十分ですし笑

気づいたら5万文字

卒論みたいなレポート課題って、取り組む前はからだを起こすのがかなりつらい。

ですがいざ書き始めて自分のゾーンに入ってしまえば、気づいたら数千字くらいはチャチャっと書けちゃうものなんですよね。

ひたすらに書いていると自分に足りない知識やもっと調べなければならないことをたくさん発見できる。

そうするとさらに書き進められるようになる。

文字数が増えていくと、さらに必要な文献が出てくる・・・。

みたいな無限ループに陥ります。

論文は自分の言いたいことを「論証」するためのものです。

すなわち、自分の言いたいことがたくさんあればあるほど、そのために必要な資料や文献も大量に必要になるわけです。

結局、ミニマム15000字に対して、最終的には5万文字くらい書けちゃいました。

ってことを友達に自慢したら、「え、普通じゃね」という反応をされたので、すこし落ち込んでいます。

たしかに卒論は、「合格」という評価さえもらえれば中身の出来はぶっちゃけどうでもいいものです。

雑誌に掲載されたり学会で発表したりするわけじゃないですからね。

ですがやっぱり、どうせやるならとことん極めてやりたいと思っちゃうんです、ぼくは。

そういうところが、変にまじめで、極端に頑固であるぼくの性格のあらわれだと考えてますね。

知らないってうれしい

卒論を書いていて思ったのは、世の中には「知らないことを知らない」ことが大量にあるということです。

自分が知っている知識なんて米粒みたいなものです。

「知らないとわかっている」知識もおむすびくらいなものです。

そのほかのほとんどが、「知らないことにすら気づいていない」もので埋められているのではないかと思ったわけです。

知らないことは多いということは、これからの人生でどんどん学んでいくことができるチャンスがたくさんある、ということでもあります。

というわけで・・・

なんで突然こんなきれいごとを語り始めたのか。

それは、実際に行動に移しているからです。

というわけでぼくはいま、TOEICの勉強をしちゃってます。

最後に受けたのは大学二年の秋ごろなので、優に二年越しの受験。

当時のスコアが800点をちょい超えたくらいだったので、今度はガチで900越えを目指したいと思います。

別に「ビジネスに有利」とか「お金稼げる」みたいな目的ではありません。

純粋にTOEICにおける自分の限界を知りたい、英語をもっと知りたいというやんちゃな動機で受験するだけです。

毎日4時間くらいはリスニングや単語の勉強に割いているわけですが、やっぱり悔しいですよね

何に対して悔しさを抱いているのかといえば、「わからない」ときです。

何回聞いても聞き取れない前置詞や単語がある。

どこに答えのヒントがあるのかわからない。

ですが逆に、わからないが「わかる」、「できる」「理解した」に変わった瞬間の喜びは最高ものです。

やっぱり、たのしいですね。「好きなこと」を学ぶって。これ、ほんと大人の特権だとおもいます。

雑記

最近寒すぎて貼るカイロをぺたぺた貼りまくってます。

おなかとか背中に貼っていると、ふとしたときにカイロがあたる瞬間に、この上ないあたたかさ・気持ちよさを感じられますよね。

「貼る」カイロではなくて、自然のカイロである「春」が待ち遠しいですねえ。

はい。つまらない

 

#37 【わたしはだれ】ネタがないので自己紹介をしてみた記事

こんにちは、大学四年生のアキトです。

っていう極めてつまらない文章からスタートすることしかできないほど語彙力が低いのが、ぼくの特徴です。

今回は、記事のネタがないピンチを救ってくれる存在である「自己紹介系」記事を書いてみたいと思います。

いま思い返せば、こういう記事を書いてこなかったので、まあいいタイミングなのかなと思いますねえ。

肩書

ぼくはいま21歳で、国立大の四年生。来年から社会人としていっちょまえに働く予定です。まあ、この程度の肩書しかないような、どこにでもいるような男性です。

あきとって本名・・・?

人の名前はその人の第一印象を形づくる、みたいな持論をもっているぼくですが、僕の名前である「あきと」は果たして本名か。

別に、本名ではありません。

やっぱりインターネットの利点はなんといっても匿名性にあると思うので、すこしでも自分に関する情報は伏せておきたいんです。

まあ、このブログで自分の趣味とか性格とかが垣間見えてしまうという心配もあります。

ですがそんなことを気にしてたら、大事な趣味であるブログすらまともに書けなくなってしまいます。

さて、あきとが本名じゃないなら、なんであきとを名乗っているのか。

それは、自分の好きな漫画に登場する人物に、そういう名前のキャラがいるからです。

10年くらい前にジャンプで連載されていた「バクマン」という漫画があるのを知ってますか?

ぼくあの漫画にでてくる、高木秋人っていうキャラがものすごく好きだったんですよね。

過去形になってしまいましたが、もちろんいまでもお気に入りのキャラです。

このことを書くと長くなるので、違う記事でまた書きたいなと

性格

単独行動力

さて、普段は自称「陰キャ」、「単独者」、「オブザーバー」として生活しているぼくですが、別に性格が暗いような人柄ではありません。

陰キャにたいする一般的なイメージって、「ヒョロヒョロ」してて「挙動不審」で「性格が暗く」て「ノリが悪く」てみたいな、ネガティブなものが多いじゃないですか。

たしかにぼくも、ノリは悪いところはあると思います。

ですが、「単独」でいろいろなところに出かけたり、いろいろな店舗で一人で気ままに食事したりすることが大好きなんです。

よって、性格も暗くないです。

つまり、グループ行動や馴れ合いは苦手なのですが、その代わり、一人でどこでも楽しく行動しちゃうタイプの陰キャなんです。

akito-library.hatenablog.com

だから、一人で映画館に行くし、上野の美術館に行くし、しゃぶしゃぶ食べ放題に行くし・・・。

楽しいことは楽しいものとして素直に楽しみたいので、比較的自分の気持ちに正直に生きることができてると思うんですよね。

まじめ

あとは、ぼくは結構まじめだと思います

「自分で言うなよ」って思われるかもしれませんが、割と「コツコツ」と何かを積みあげることが大好きなんですよね。

大学受験のときも、いろいろな科目の勉強を積みあげることが楽しかったので、目標の国立大に合格できました。

TOEICの勉強も、自分で立てた計画通りに忠実に学ぶことが好きだったので、800点スコアを超えることができました。

一部自慢も入ってますが、まあ、そういうことです。

努力したり、コツコツなにかを積みあげることが大好きなんです。

このブログを続けられるモチベーションも、この性格に由来していると思います。

自分ががんばって書いた記事が、一つ一つネット上に堆積していくのが楽しいんです。

ひねくれ性格

さらにぼくは、相当ひねくれものです。

たとえば、周りの人がグループで楽しそうに遊んでいるのをみると、「はっ!ぼくは一人でも楽しいですが?君たち、群れの一部になることで安心感得ているタイプでしょ?」と思ってしまいます。

うざいやつですね~笑

他にもいろいろな例があります。

  • 周りに自分の弱いところをみせたくない。
  • 相手に褒められると、なにか裏に違う魂胆でもあるのではないかと疑ってしまう。
  • 精神的な苦しみにあえいでいる人をみるのが楽しい
  • 自分より不幸な人を探しまわってしまう
  • 人が失敗するとまじでうれしい→人の成功をよろこべない
  • 怒られると、いつか相手に仕返しをしたいと思う
  • 感情を表に出したくない→心を読まれたくない。うざく思われそうで怖い

やばいですよね。

サイコパスですよね。

社会不適合者ですよね。

まあでも、そういう性格なんだから仕方がないし、とくに治すべき性格だとも思ってません(でました、ひねくれ思考)。

以上が、僕の主な性格です。

つまり、

単独でいろいろなことをするのが大好きであり、自分で課題や計画を設定して毎日コツコツ努力できるようなまじめさがあり、自分や相手の気持ちに正直になれないようなひねくれ者なのです。

趣味

そんなぼくの趣味は、割とたくさんあります。

ひとりでいろいろなことをするタイプの人種なので、

自然と趣味の幅も広がっていくからです。

たとえば、

  • 幼稚園のころからダラダラ続けているサッカー
  • 大学一年のころからはじめたピアノ
  • 食欲を満たすためにはじめた食べ歩き
  • ウイニングイレブン
  • 読書(小説や政治学系の本.いわゆるビジネス書はdon't like)
  • アニメ(30分てのが丁度いいっす)
  • ブログ(週に1回前後)
  • 料理(時間がある日にダラダラ)

などなどですね。

まあ、そこまで高尚な趣味ではないです。

ですが、ぼくの好奇心や探求心を深めてくれるありがたいものばかりです。

人間関係があまり広くない分、趣味は結構広めだと思います。

他の人にあまり興味がない分、自己愛が強いのかもしれません笑

ちなみにピアノで最近練習しているのは、嵐の「アオゾラペダル」という歌。

最近作った料理は卵焼きやかつ丼で、最近読んだお気に入りの本は「ナショナリズムの美徳」です。

まとめ

今回の記事では、はじめて自己紹介的なものをしてみました。

自分で自分の性格や趣味を文章化するような経験はおそらく今回が初めてでしたね。

だれかに自分のことをくわしく紹介することもなかったし、そもそも紹介する相手すらいないですし。

まあ、ぼくってこういう人です。

雑記

公務員試験が終わってからぼくの精神を傷めつづけてきた卒業論文

やっと、ようやく、ゴールのめどがついてきました。

担当の先生に添削をお願いしたところ、

「だいぶよく書けてるね。あとは細かいミスとかがないか確認したり、○○みたいな文章を加えてみたりしてみるよいいよ」

てきなアドバイスをいただけたわけです。

ぼくの卒論って、テーマも構成もすべて先生の受け売りなので、その先生からオーケーをもらえるとやっぱり自信になります。がんばってよかったです。

来年の提出までまだ少しだけ時間があるので、できる限り完成度を高めていきたいなと思っちゃってます。

 

#36 【オンラインでいいやん】内定者懇談会に出席させられました

まくら

こんにちは、来年から社会人のあきとです。

無事に公務員試験が終わって内定を勝ち取ったのはいいのですが、最近やたらと「内定者懇談会」みたいなイベント案内が送られてくるんですよね。

コロナ渦を口実にオンラインにしてほしかったのですが、すべて対面でした。

ただぼくは、来年四月からダラダラと人間関係を築いていけばいいと思うんです。

別に、日本がつぶれたり解雇されたりするわけじゃないですから、いまから焦る必要なんてないと思います。

向こうからしたら、「顔合わせ」をとおして少しでも親睦を深めてほしいと思っているのでしょう。

ですが、特に内定者と仲良くなりたいとは思ってないぼくからしたら、ちょっとありがた迷惑というか・・・。

ね。

そういう機会をセッティングしていただいたことには感謝しますが、別にうれしくはないよってことです。

内容

自己紹介

肝心の内容なんですが、ほんとにテンプレみたいなメニューでしたね。

まずはじめに、例のやつを一人ずつやりました。

みんな大好き、自己紹介です。

自己紹介って、最初の人が地獄なんですよね。

だって、自己紹介のテンプレを自分で考えないといけないのですから。

二番目以降の人は、最初の人がつくってくれたテンプレ通りにしゃべればいい。

名前やら趣味やら志望動機やら。

ぼくは真ん中くらいだったので、ちょうどよかったですね。

見学会

「こんにちは~です。」みたいな謎の馴れ合いごっこを終えたあとは、職場見学をしました。

まあ、これはいい経験でしたね。

自分のはたらくところがどういう場所で、どういう雰囲気で、一部屋に何人くらいつめこまれているのか。

なので、いろいろと収穫はありました。

結果

自己紹介と見学会だけで、懇談会は終わりました。

なんかお菓子とかもらえるかなとおもったのですが、社会はそんなに甘くないですよね。

ここ、お菓子の甘さと社会の甘さをかけたんですけどね、はい。

こういうときの定番なのですが、帰るときって、絶対男女別で固まって帰っちゃうんですよね。

男性と女性が混ざることはあまりなくて、それぞれの性別グループの中で粘っこい馴れ合いがスタートするんですよ。

ぼくは、こういう馴れ合いがあまりすきではないので、颯爽と駅へ歩いて行ったのですが、中には「集団」にしがみつきたいと思っちゃう方もいらっしゃるらしいです。

そりゃそうですよね、不安ですから。

ただちょっと心配なのが、次の懇談会のときにぼくだけ男子のグループから疎外されたらどうしよう問題です。

まあ、さすがに疎外されることはないと思うので、次はぼくもきちんと群れの一部となって帰りたいと思います。

まとめ

雑記

ここ数日の寒さでぼくの足先が大ダメージを受けているので、靴を変えてみました。

普通のスニーカーから登山用のものへと。

もうね、けた違いの温かさでしたね。

今までのスニーカーが、完全に夏専用のメッシュ構造の靴だったんですよ。

そりゃ、寒いよねってわけで、これらから数か月は、登山用の靴にぼくの体重を支えてもらおうかなと思っちゃってます。

あと、最近風邪をひいていたのでブログを更新できなかったですね。まあ、ちょっとめんどうくさかったというのもあるんですけど。

 

#35 【国際政治】同じじゃね?リアリズムとネオリアリズムについて

まくら

どっかの記事で以前、コンストラクティヴィズムの超入門的な内容を書いてみました。

今回は、コンストラクティヴィズムを理解するために必要な理論である「リアリズム」について説明したいと思います。

で、次回は、ネオリベとか書いちゃおっかな!!みたいな。

コンストって、(ネオ)リアリズムと(ネオ)リベラリズムにたいする批判として登場した節があるんですよね。

なので、この二つの違いや本質をしっかり「理解」しておくことが大事なのです。

リアリズムの本質

人間の性格

「利己的」な人同士が、おたがいに仲良くすることがむずかしい。同様に、「利己的」な国家同士がおたがいに仲良くすることはあまり期待できない。結果、人間不信ならぬ国家不信に包まれた国際社会がうまれることになる。それが、政府という抑制機関の存在しないアナーキーである。

リアリズムという概念は、

「人間の心は結局利己的で邪悪で欲望にまみれているよね」

という、人間の「悪」の部分にフォーカスすることを出発点とする議論のことです。

たとえば、人間は自分のしたいように暮らしたいし、自分の食べたいものを食べたいし、自分の愛する人といろいろなこと(あんなこといいな!できたらいいな!)をしたいと考えていると思います。

もし人間が他人のことを十分に気にかけることができる「やさしい」存在であれば、人の行動をしばる憲法とか法律っていらないですよね。

でも現実はそうではない。

リアリストは、そう指摘しているのです。

荀子性悪説と似たところがありますね。

リアリストたちは、この考え方を国家にもあてはめます。

彼らは、たくさんの人間が集まってつくりあげられている国家という存在もまた、人間と同じような性格をもつのではないかと考えているのです。

すると利己的な国家は、自分が生き残るためにあらゆる労力を投資して、ほかの国からの攻撃に備えるようになるのです。

そのためにとる手段こそが、パワー、いわゆる軍事力をガンガン強めることです。

こういう利己的な国家でつくられた国際社会には、国家の行動をしばるための「政府of政府」みたいなものは存在しません。

普通の国家には、ぼくたちの暴力をとりしまるための警察とかがありますよね。でもリアリストは、国際社会には、国家の行動をとりしまるための世界警察みたいなのはないと考えます

このような状態のことを、無政府状態アナーキー)といいます

ちなみにアナーキーとは無秩序という意味とおなじではありません。これについては、ネオリアのところでお話しします。

安全保障のディレンマ

安全保障のディレンマ=安全保障環境を高めるための軍事力の拡大という一国の行動により脅威認識を高めた他国は、やはり自身の安全保障のために当該国と同様の軍事力の拡大という手段をとるため、国際社会における安全保障上の優位性が出現することが困難であることを指摘した考え方のこと

国際政治の教科書とかにいきなりでてくる「安全保障のディレンマ」というミステリアスな概念も、簡単に理解することができます。

ジレンマ=目の前に二つの選択肢があるけれど、どっちを選んだとしても、あまりいい結果を得ることができない状況のことを、ジレンマというらしいです。

たとえば、A国とB国とC国があるとしましょう。

どの国もリアリストが思い描くとおりに行動するのであれば、A~C国はすべて、自分たちの安全保障を高めるための「パワーアップ」を図ろうとします。

当然ですよね。

たがいに利己的であり、かつ信頼しあってないのですから。

さて、リアリズムにおける最大のパワーは、「軍事力」だといわれています。

いざというときにどれだけアタック・ディフェンスできるかが、一番大事なのです。

つまり、リアリストにとっての安全保障戦略は、「=軍拡一本だ!」ということになる。これは、モーゲンソーという天才が古典で書いています。

では仮に、A~C国がそれぞれ100のパワーをもっていたとします。ここでA国が軍拡を行い、A国のパワーが120になったとしましょう。

B国とC国は、これをどう思うでしょうか。

たぶん、

  • 「うわ!A国のパワー20%もアップしてるじゃん。おれもパワーアップしないとあいつに侵略されちゃう。最悪、生き残れないよ・・・」

と考えるでしょう。

よってB国もC国も、A国に負けないくらいのパワーアップを図るようになります。

たぶんBもCも、A国とおなじ120くらいにまで力を高めるでしょうね。

すると、あらびっくり!!

「パワーを増やして安全保障力を高めよう」というA国の思惑が、見事に外れてしまったのがわかりますか?

なぜなら、A,B,C国すべてのパワーが120に落ち着いたからです。

この状態は主に、二つのことを意味します。

  • 第一に、三国(A~C)のパワーは結局同じところに近似すること。
  • 第二に、一国の相手国にたいする脅威がさらに膨らんだこと。

安全保障の力を高めるための努力が、相手の力の増大をまねき、逆に自分の立場を危うくしてしまう。

こういうことを国際政治学では、「安全保障のディレンマ」と呼んでいるのです。

勢力均衡

しかし各国家は、安全保障のジレンマにいつまでも悩まされつづけているわけにはいきません。

さて、どうしようというときに登場したのが、「勢力均衡」という考え方です。

さきほどの、A~C国に再登場してもらいましょう。

この考え方は、やたら軍事力を高めたがる国(仮にA国)のわがままな行動を抑制するために、A国以外の複数の国のあいだでなんらかの協力関係をつくろうというものです。

そうすれば、A国の軍事力だけが抜きんでて高まってしまうような状況を回避できますよね。

たとえば、第一次世界大戦のときには、ドイツという強大な敵にたいして、イギリスやフランス、すこし遅れてアメリカが同盟を組んで対峙していましたね。

ただ、勢力均衡はかんたんにぶち壊れるものですし、そこまで国際社会を安定させるものではありません。

事実、世界大戦が二回も起きるという無様なことになっています。

やっぱり、アナーキーな国際社会という構造を安定させるためには、途方もない努力が必要になるようです。

ネオリアリズムの本質

じゃあ、アナーキーという状態の中で安定的な秩序を保つためには、どういう風に行動するのがいいのでしょうか。

このように、アナーキーという「構造」から、国家の行動を分析する方法を、「ネオリアリズム」といいます。

そしてネオリアは、どのような国際社会を築くことができれば、安定したアナーキーを維持することができるのかを分析しているのです。

たとえば、ある人は二極構造(米ソのような)がよいといいます。

ある人は、多極構造(ぐちゃぐちゃ)がいいといいます。

ある人は、覇権国家安定論(米国一強が安定する!的な)を説きます。

新旧リアリズムの根本的な違い

1:軍拡の理由

新旧リアリズムの根本的な違いは、第一に、それぞれの国が軍事力を高める理由をどのように説明しているかにあります。

旧リアの場合は、自分が相手から攻撃されたり侵略されたりしたときにたちむかえるようにするために、自分の生残力=軍事力を高める必要があると説明していました。

つまり、「人の本質は悪」だから、軍事力を高めると解釈しています。

軍事力を高めると、必然的に競争=戦争がおこると分析するわけです。

しかしこれにたいしては、「人の本質なんてわからないじゃないか!旧リアは非科学的だ!」という批判があったようです。

そこで登場したのが、新リアです。

新リアは、「アナーキー」という状態を生き抜くため必要な「合理的」な行動はなんだろうという問題提起からはじまります。その答えが、「軍事力」の拡大なのです。つまり、「国際構造がアナーキー」だから、軍事力を高めると解釈しています。

一般的な国家は、お決まりがかかれた憲法や法律があり、行政や立法、司法のような信頼できる組織がある・・・という感じで、各ユニットが秩序づけられていますよね。

しかしアナーキーという構造においては、自分のことを守ってくれるものはなにもない。そう、自分を除いて。

であるならば、各国家は「自助=軍拡」に頼らざるをえなくなるのです。

「人の本質=個人レベル」で分析する(=旧リア)のか、「構造=システムレベル」で分析する(=新リア)のかの違いですね。

2:勢力均衡のとらえかた

二つ目は、勢力均衡のとらえかたです。

旧リアの場合は、本質が悪である人によって構成されている国家は、必然的に戦争に走らざるをえません。しかしそれでは国際社会は安定しない。

てなわけでそれぞれの国の外交化や政治家が、自分たちに有利になるようなグループをつくるようになるわけです。

新リアの場合は、アナーキーという「構造」が、「必然的」に勢力均衡をもたらすと指摘しています。

なぜなら、アナーキーという舞台におかれた各ユニット(国家)は、自分たちの生き残りをかけることに必死だからです。

「軍拡」と「同盟」という二つの手段は、各ユニットが使わざるをえない戦略であるといいかえることもできるでしょう。

違いまとめ

これらの違いを一言でいうと、分析対象が「個人・国家」なのか、「国際構造(システム)」なのかです。

いわゆる、ウォルツの三段階モデルですね

前者の場合は、たとえば「ふつうの」ビリヤードを思い出してください。

ビリヤード版が国際社会で、球が国家です。

ビリヤードとは、ばらばらに散らばったたくさんの球が、無秩序に動きながら、お互いに衝突をくりかえすようなゲームですよね。

すなわち、利己的な国家や指導者はどういう風に動くのか、どういう風に衝突するのかを分析する。

旧リアは、まさしくそういう「ミクロ」な側面をみているのです。

後者の場合は、「球が無秩序に動かない」ビリヤードを想定してみるとわかりやすいです。

そんなビリヤードないですけど、たとえです。

このときに球は、数学的・合理的に正しいとされるような方向にしかうごきません。

ネオリアリズムは、国家は合理的に行動すると仮定しているからです。

つまり、どういう風に球をうごかせば下手に衝突をおこさないのか、どううごかせば球はアナーキー(ビリヤード版)上を安定してうごきつづけることができるのかを分析しています。

その結果導きだされた答えが、二極だったり、多極だったり、覇権国家安定論だったりするわけです。

まとめ

ネオリアリズムについてきちんと書こうとすると、記事の文字数がとんでもないことになります。

今回の記事でも、たぶん全体の1割も書けていない気がします。

いま書きたいなと思ってるテーマは、

  • ネオリアは戦争を予測するのかしないのか
  • ネオリアはなぜ冷戦終結を予測できなかったのか
  • アナーキーは本当に危険な構造なのか

などなどです。

リアリズムとネオリアリズムの違いを理解することは、めちゃんこ難しいです。

「個人・国家と構造の違い」とか言われても、なんのこっちゃですからね。

国際政治学がだいすきなぼく自身もまだ学んでいる途中なので、社会人になってからもいろいろな古典を読みながらたのしくブログを書いていきたいなと思ってますねえええええ

雑記

健康にいい食事は一日三食だとわかってるのですが、やっぱり朝っておなかがすかないんですよね。

理由はひとえに、夕飯を食べすぎるから。

ぼくはまだ実家暮らしなので、母親のつくる夜ご飯が本当においしいんです。いや、ほんとにありがたい。

なので、普通にごはん3杯くらいおかわりしちゃいます。

そりゃ、朝おなかがすくわけないよなって感じですよね笑

もちろん、起きたあとの血糖値は下がってるので空腹感自体は感じるのですが、おなかがパンパンだということです。

そんな状態で無理に食べると逆にからだにわるい気がするので、まあ、みそ汁すするくらいにしてるんですねええ

#34 【ぼくもいれてよAUKUS】オーストラリアとイギリスがAUKUSに誘われた理由

目次

こんにちは、卒論の原型を書き終えて、おそるおそる添削依頼をしたばかりのあきとです。

あと一か月かそこらで提出なので、最近精神的に落ちつかないんですよね。

まあたぶん、来月になって卒論が終わってしまえば、「あ、あの頃は懐かしかった」という身勝手なノスタルジーに浸ることになるのでしょうが。

今回は、いつか書いた記事のつづきです。

なんでオーストラリアとイギリスはAUKUSに入るようにお誘いを受けたのか。

背景は割と簡単なんですけど、記事の数をつみあげると自己満足できるので、今回もちゃちゃっと書いていきたいと思います。

イギリス

面目丸つぶれ

アメリカが中国に対抗するためのお友達を募集するにあたって大切にしていたことは、中国にたいする危機感をお互いにきちんともっているかどうかということです。

日本みたいに媚びてばかりいるような国には誘いの手はのびてきません。

ではイギリスは、なぜ中国を強く意識しているといえるのか。

それはひとえに、「香港」問題です。

長らくイギリスの領土だった香港は、99年間という中途半端な契約期間を経たのちに、中国のもとに返還されました。たぶん、1997年のことです。

自由民主主義を標榜するイギリスに統治されていたわけですから、もちろん香港にも、資本主義や部分的な民主化が導入されていました。

せっかく根付いた資本主義などを中国にぶち壊されたら元も子もありません。

てなわけで中国とイギリスは、「2047年までは、香港の政治体制を変えません!」という契約を結んだわけです。

これがいわゆる、一国二制度のはじまり。

中国という国の中に、異なる体制の国が二つ入っているといいうことですね。

しかし今の香港は、完全に中国の属国。

返還当時のイギリスの期待はまんまと裏切られ、香港は完全に中国の手の中に落ちてしまいました。

自分たちがつくりあげた国(自治区?)の制度が、中国という一国によって転覆させられてしまった。

これは、イギリス政府にとってはまさに侮辱的な出来事で、面目丸つぶれです。

グレートブリテン

同時にイギリスでは、EUという超国家的な共同体に自分たちの権利のおおくを渡してしまっている状態に異論をとなえる国民が増えてきました。

超国家とは、複数の国家をさまざまな方向性から束ねている存在のことで、たとえばEUの場合は、行政や経済、労働などの面で超国家的な権力をもっています。ちなみにEU憲法に拘束力はないらしいです。

いわゆる、ブレグジットですね。

この「ナショナリズム」的傾向を露わにしたイギリスからすれば、人としたお約束すら守ることができない中国にいちいち媚びを売りつづけることはしたくない。

結果的にイギリスは、艦隊「クイーンエリザベス」などを引き連れて太平洋を航海した入り、ぼくたち日本の自衛隊と訓練したりしてくれるようになったわけです。

いやあ、クイーン・エリザベスって男心をくすぐるようなネーミングですよね。えらいかっちょいいです。

対中+ナショナリズム

「グローバルの経済より価値観だ」

「現状のルールを何としても守り抜くのだ」

香港やブレグジットによりこうした現実を共有するようになったイギリスは、アメリカが同盟への参加をもとめるお手紙を送る相手としては格好の存在。

しかもイギリスは、ファイブアイズ加盟国であり、アングロサクソン系国であり、英語圏です。たくさんの共有する価値観をもっていたからこそ、イギリスと協力する気になったのでしょう。

って、冷戦時代から米英は仲良しこよしですけどね笑

オーストラリア

プレッシャー

オーストラリアはいつから中国から嫌味を言われるようになったのでしょうか。

わからないので調べてみると、どうやらやっぱり「お金、賄賂」が絡んでいたようです。

もともと豪中は経済的なパートナーシップやFTAを結んでいただけあって、そこまで犬猿の仲というわけではありませんでした。

事の発端は、オーストラリアの政党が中国共産党からたくさんのわいろを受けとって、オーストラリア政治を中国寄りに動かしていたことが判明した2017年ごろです。

当然これに怒り心頭の国民や、それに触発された政権は、「外国が政治に介入しないようにする」ための法律案をつくりました。

ですが、被害妄想甚だしい中国は、「この法律はおれたちを標的にしたんだな!」と勝手に怒り、勝手に関係を悪化させるのでした。

いわゆる「政治とカネ」の問題がトリガーとなり豪中関係の悪化がはじまります。

オバマの遺産

そのあと中国が南シナ海に進出しはじめたわけですが、当時の米国大統領オバマ氏は、これを本気で止めることはしませんでした。

そして気づいたときには、南シナ海の各地には、ご立派な滑走路やヘリポートをはじめとする軍事施設が備えつけてある人工島がわんさかつくられていました。

しかもこれらの人工島は、オーストラリアとあまり離れていないところにある。

中国本土とオーストラリア本土のあいだには一定の距離があることは確か。

ですが、人工島の建設により、中国の軍事力によってオーストラリアの安全保障が脅かされるという現実があらわになってしまったのです。

こんなことを放置していたオバマ氏には、なんとノーベル平和賞が贈られたわけなんですけどね。

コロナ問題

極めつけは、コロナです。

オーストラリア首相のモリソンさんはさらに、中国から脅迫状を受け取ります。

内容はたとえば、

  • 反中報道を抑制せよ
  • コロナ中国起源説を肯定するような発言は避けよ

のように、プーさんという野蛮人の意図に沿うような国家運営をするようにと、警告されてしまったのです。

オーストラリアにとって中国の14億の市場は捨てがたいですが、彼らにも安全保障、価値観、文化、プライドというものがある。

自分たちのことは自分たちで守りたいが、狡猾な中国に一国で対抗するにはさすがに不安がある。

アメリカのお誘い

こうしたオーストラリアの窮状に見事につけこんだのが、アメリカでした。

世界でも数か国しか保有していない原子力潜水艦をつくることを置き土産に、自分たちだけの英語圏軍事同盟をつくろうではないかと、提案したわけです。

オーストラリア近辺には複雑に入り組んだ地形があるのですが、その付近に原潜をおくことで、中国艦隊にたいしてパトロール待ち伏せのような対処ができるようになります。

さらにここに、かつて世界の海を支配下に置いており、現代では「グローバルブリテン」としての地位を志向しようとしているイギリスを仲間に入れてしまえば、なんと。

アジア、ヨーロッパ、北米の英語圏三か国による屈強な同盟が立ちあがるわけです。

まとめ

決まりを守ることができず、その決まりをも破壊しようとするプーさん。

決まりを守り、お互いに権利や自由を譲歩しあえる今の社会を守ろうとする米国、イギリスなどなど。

新冷戦などいわれている戦いの本当の山場は、海洋や人権に関する国際協定を守りきることができるか否かにあると思います。

ぼくは、国連とかに主権を委譲してしまうのはあまりすきではありませんが、海洋漁業や宇宙開発、貿易をはじめとする国家横断的な利益が相対する現代国際社会においては、やっぱりなんらかのルールをつくっておいたほうがいいことは確かです。

自由に行動するためにも、お互いに相手の自由を承認しなければならない。そのためにも、お互いの自由には何らかの制限がかけられても仕方がないのです。

かんたんにいえば、自由にあらかじめ線引きをしておいたほうがいい。

その線引きをなんとか守り抜くために、AUKUSさんには体を張ってがんばっていただきたいです。

ぶっちゃけ期待できるのは、モリソンさんとジョンソンさんですけどね。バイデンさんって、口では強いことをいいながら、経済的に強烈なアッパーをくりだすことがすくないんですよね。彼はボケも疑われてるんで、あまり期待してないです。

雑記

最近、自由とか権利ばかり主張したがる人が増えていますよね。

一方の自由や権利が広がるということは、もう一方の自由や権利が狭くなるということです。

自称リベラルな人は、前者ばかりを重視して後者を軽視しがち。

まあ日本人は賢い人が多いので、しばらくはカナダやオーストリアみたいな左傾化が進むような心配はしなくてもよさそうですね。