AKITOの思考ノート

あきとの備忘録

板チョコレートは一日一枚

【伊香保温泉への一人旅】旅館から帰路

こんにちは、あきとです。

今回の記事は前回の続き。伊香保温泉への一人旅の後半戦を振り返ります。

前半戦の振り返り

伊香保温泉への一人旅。

前回の記事では、出立から昼飯までの行程を時系列でご紹介しました。初の一人旅で不安と興奮で起伏する感情。目の前に聳える365段の石段への畏怖。唐突な空腹で訪問したうどん屋の味への感動。

前半だけでも、ぼくが今まで経験したことがないさまざまな体験や感情に触れることができました。後半戦の記事では主に、旅館での宿泊体験や、旅先からの帰路について、その振り返りをしていきたいと思います。

旅館

部屋

ぼくは普段からウォーキングが趣味。脚と心臓の筋力には自信がありましたが、やはり2~3時間も歩き続けていると、身体が悲鳴をあげてきます。

早速ぼくは旅館へチェックイン。このとき時刻は午後三時。やや早いですが、疲れているぼくの脳には「温泉」の二文字しかありません笑。

宿泊場所は、石段街から15分ほど歩いた場所にある「さくらい旅館」。事前のネット予約が功を奏し、スムーズに部屋に案内してもらえました。

部屋は完全な和風仕様です。

床はフローリングではなく「畳」。

食事台はテーブルではなく「ちゃぶ台」。

座席は椅子やソファーではなく「座椅子」や「座布団」。

都会のビジネスホテルとは一線を画すくつろぎの空間です。その部屋の佇まいにぼくの疲れは吹き飛んでしまいました笑。

夕食

食事は、ぼくが旅館で一番待ち焦がれていた要素です。

ぼくは食事中にカメラをパシャパシャする行為は好きではないので、夕食の画像はありません。

普段は質素で簡素な自炊料理を嗜むぼくからすれば、豪勢なメニューがそろう旅館の料理には舌鼓を打ちまくり。地元名産の肉、味はよく分からないが高級そうなお刺身、名称は不明だが不思議な食感の副菜などなど、人生初の旅館食を存分に堪能することができました。

誰にも邪魔されずに、自分のペースで腹を満たす。これぞ人間の幸福です。

朝食

ぼくが予約したプランは朝食もついていました。

予約した当初は、夕食のみが提供されると思い込んでいたので、割とサプライズな出来事でした笑。旅行慣れしていないからこそ起きる瑕疵ですね。

朝食もしっかりお腹に収めて、残り時間は読み残したミステリー小説を1時間ほどのんびり堪能します。

さて、気づけば時刻は10時過ぎ。チェックアウト時刻を徒過しない様に、20分ほど余裕をもって旅館を後にしました。夢のような非日常的な幸せもここで終了です。

帰路

夢の後は現実です。

伊香保温泉旅行を堪能したぼくは自宅への帰路の旅につきます。その手段は二通り。行きと同じく特急列車を使うか、あえて普通列車に揺られながらのんびりと帰るか。

結局選んだのは後者の普通列車の旅。次の日も会社は休みでしたし、年に一度くらいは、普通列車に揺られる3時間の優雅な旅を経験してみたかったのです。

特に途中下車をしたわけではありません。ただ、車窓が映す街や田畑の風景は平和的で情緒的。帰路がもつ特有の切なさは感じましたが、その三時間は、普段は楽しめない非日常を心行くまで味わい尽くすことができました。

まとめ

今回の記事では、旅館と帰路の様子を振り返りました。ぼくが計画した伊香保温泉旅行についての備忘録は今回の記事をもって完成となります。冗長な文章は嫌いなので、自分の印象に残る体験を少数取り出して、その経緯や感想を書き残すだけに留めておきました。

さて、今回の旅行は一泊二日でしたが、次回は二泊三日にもチャレンジしたいと考えています。あるいは、日帰り旅行を二連続で計画して複数の場所を短期間で楽しむ夏期休暇も魅力的ですね。

お金がかかる旅行は年に一度。だからこそ、行先の吟味や計画作りに精が出る。次の旅行先は未定ですが、来年も同じような旅行記事を備忘録として残せたらなと思います。

【伊香保温泉への一人旅】出立から昼飯

こんにちは、あきとです。

ぼくは家族旅行を経験したことがありません。旅館に宿泊したり、旅館の豪勢な食事を食べたりした経験もありません(修学旅行を除く)。

そんなぼくも22歳の社会人。若いうちから色々な経験を積み重ねるのも大切。そこで今回は、人が少ない平日をターゲットに定めて、自由奔放・奇々怪々・驚天動地な一人旅を計画してみました。会社の夏季休暇制度を使った一泊二日の単身旅行です。

訪問先は伊香保温泉街。伊香保群馬県を代表する温泉街で、ぼくの家からも比較的短時間で行ける場所です。初めての旅行先として不足なし。早速今回の旅行を振り返っていきましょう!

出立(特急草津一号)

伊香保温泉の最寄り駅は群馬県渋川駅。ぼくは上野駅から出発する特急草津一号という特急列車を利用しました。購入したのは指定席切符。座れない不安と格闘したくないからです。さて、初の長旅でぼくの心はウキウキ状態です。

ただ先述したように、ぼくは今まで旅行を経験したことがありません。ですから、旅行以前の話として、鉄道業界の専門用語である特急切符とか自由席の意味を理解するのに時間がかかりました。

まあ、今はネットがあります。知恵袋や鉄道各社のHPで情報を収集すれば、結局何とかなるものです。

到着(渋川駅~石段街)

渋川駅には約2時間30分後に到着しました。

駅前に広がるロータリーにバス乗り場があるので、3番の乗り場から最終目的地である伊香保温泉の石段街を目指します。バスの乗車時間は約30分です。

無事に石段街に到着したはいいものの、ぼくは自分が何をすればいいのかわかりませんでした。初旅行の興奮が災いしてあまり空腹も覚えていません。

というわけで、とりあえず登りました。階段を懸命に登りました。

石段の数は365。階段の数は悪魔的ですが、その分石段を登る過程で多くのお店を楽しむことができます。実際石段街には、レトロで昭和な雰囲気が残るお店がたくさん軒を連ねていました(射的、お饅頭、うどんなど)。周囲の風景に魅了されながら進む石段の旅は、想像以上に密度が濃いものです。気づかぬうちにぼくは最上段に到達していました。

空腹(昼飯)

365段を見事走破したぼくの身体は完全なガス欠状態。気づけば時刻も14時近く。そろそろ何かエネルギーを注入したいぼくは、石段街の途中に気になるうどん屋があったことを思い出して、そこでお昼休憩に入ることにしました。

ぼくがお世話になるのが、伊香保市内に三店舗のうどん専門店を展開している「大澤屋」といううどん屋さん。注文した料理は水沢うどん。お店の看板メニューです。

そもそも水沢うどんは、原材料を地元の小麦粉と水及び塩のみで作るうどんをいいます。つまりこのうどんは、化学物質等で味に余計なアクセントをつけていない純粋でシンプルなうどんなのです。

それが幸いして、食感は噛み応えを感じられるぼく好みの硬さで、味は小麦粉の純朴な香りが仄かに感じられる素朴で優しい味でした。ぼくが普段食べるうどんは基本的に安い冷凍うどんですから、年に一度くらいは、今回訪問したような専門店で本格的なうどんを堪能したいですね。

まとめ

ぼくが初めて計画した本格的な一人旅行、伊香保温泉への旅。今回はその前半部分の振り返りをしてみました。次回の記事では、ぼくがお世話になった旅館や帰り道の道程について振り返り、一人旅行の紹介記事を締めたいと思います。

【TOEIC855点】短期間の猛勉強で目標突破

こんにちは、あきとです。

中学時代のぼくは自他ともに認める英語嫌いの男子児童でした。ベネッセの進研模試では、偏差値25を獲得した経験をもつ筋金入りの問題児です。

一方で、大学受験を通じて英語の楽しさに気づき、現在僕は大学で国際学を専攻しています。同時に、自分の英語力の向上(自己満足)のために、時々TOEICを受けるようにもなりました。

というわけで、今回の話題はTOEIC

先月の試験結果が解禁されたので、今回はその結果を公表したいと思います。結論だけ言うと、結果は855点でした!

受験動機と心構え

受験動機は主に三つあります。

第一に、自己満足。高スコアを獲得して自己陶酔に浸りたい気持ちがありました笑。

第二に、ゲーム要素。TOEICは、自分が重ねた努力が数字として評価されて、その評価は努力次第でさらに伸ばすことができます。ぼくはそこにゲーム要素を見出して、自分の英語の実力をTOEICでぶつけてみたいと思うようになりました。

第三に、好奇心。就職前のプチイベントとして、自分がもつ英語力を再確認してみたい好奇心がありました。「趣味」として楽しむ英語も好きですが、やはり「テスト」のような刺激があると、趣味にもより一層力が入るものです。

以上がぼくの受験動機です。

受験動機は立派とは言えませんが、しかしぼくは中途半端な努力で試験本番に臨みたくはありませんでした。持てるすべての力をぶつけて過去最高のスコアを獲得したい。

そんな勝気でアグレッシブな熱い想いを胸に、迫りくるTOEICの試験対策を進めたのでした。

結果発表

結果は先ほども申し上げた通り、855点。

今回ぼくが目指した目標は850点です。わずかながらも目標は達成できました。

淡々と書いていますが、内心では今にも街に駆け出して騒ぎだしたいほどの喜びに包まれています笑。はい。めちゃんこうれしいです。

・・・

実は今回の受験は生涯三回目。一回目は615点、二回目は805点だったので、今のところスコアは順当に伸びているといえましょう。

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簡易的な振り返り

ぼくが対策を始めたのは1月の中旬。卒論の完成と提出が無事に終わり一段落してからです。具体的にいうと、勉強を始めたのは1月20日くらいですから、勉強期間は約一か月でした。

一か月という短期間で万全の準備を整えるために、ぼくはやることを単純化しました。

  1. 過去問題集二冊
  2. 金フレーズ
  3. 多読

この三つだけです。

過去問一冊には二回分の問題があります。二冊を解けば四回分。これで十分です。本当に大事なのは反復だからです。

金フレはもう大定番の対策書ですよね。

多読はぼくが高校生の頃に会得した英語学習法です笑。

これら三つの具体的な勉強方法は以下の記事で詳しく解説しています。お時間があればぜひご参照ください。

記事は準備中です

次の戦いへ

FP(ファイナンシャルプランニング技能検定)

外国語の勉強は高校生から毎日続けてきたので、一旦お預け。ぼくが次に目指したい資格は、経済やパソコンの体系的な知識を習得できる検定試験です。

その一つとして現在、ファイナンシャルプランニング技能検定を検討しています。

日本人の平均寿命は約80歳。80年という長き世を平穏・安寧に全うするためには、賢く巧妙に乱世を生き抜く術を習得することが不可欠。その基盤はやはり「お金」だと思います。。

FPでは、人生設計や保険、金融、税金、不動産及び相続を含むお金の全般的な知識を体系的に学ぶことができる極めてコスパがよい資格です。

今のぼくは断片的なお金の知識しかありません。脳内に散らばる知識を整理して、自分が知らないお金の基礎基本を徹底的に学びたい。そんな想いから、次に獲得すべき資格として、ぼくはFPを検討しているのです。

追記:2023年の1月、見事FP3級に合格できました。想像以上に簡単すぎて大きな達成感はありませんが、自分の努力が成果を結ぶのはやはり嬉しいものです!

MOSMicrosoft Office Specialist

加えて、MOSにも少し興味があります。

もちろんぼくも、Excelの初歩的な操作方法(グラフの表示や簡単な関数計算)は会得しているつもりです。しかし、未だぼくはExcelの真骨頂であるマクロ機能などを使いこなせていません。

これが非常に悔しい。目の前に膨大な便利機能を備えた表計算ツールがあるのに、それを自在に使えずにただ傍観することしかできない自分に悔しさを覚えるのです。

ひとまずFP3級の合格を勝ち取ったうえで、次の目標としてMOSの受験も検討しようと考えています。

まとめ

TOEICの目標スコアである850点を超えられたのは大満足です。自分が立てた学習計画に基づく猛勉強が実を結ぶのは本当に気持ちが良い経験です。割と癖になります笑。

人生は有限なので、学習できる時間にも量にも限りがあります。その中で自分が楽しく学べそうな分野を取捨選択しながら、今後もいろいろな学習や経験に身を投じていきたいですね。

【映画批評】ARASHI RECORD OF MEMORIESと辛口評価

こんにちは、あきとです。

ぼくは幼年時から嵐が好きで、今でもその楽曲をシャッフル再生しながら日常を過ごしています。

今回は、嵐の20周年ライブが映画化された「Arashi Record of Memories」を鑑賞してきたので、その感想を若干の辛口評価を交えながら書き残しておきたいと思います。

評価(高)

今回の嵐のライブフィルム、評価は10点満点中8点です。

ぼくは普段嵐のコンサートをパソコンで見ています。

僅か14インチの画面と比して映画館のスクリーンは平均約700インチ。その大画面が創る圧倒的な臨場感はまさに壮大で圧巻です。たとえば、嵐五人は赤色のルビー(?)を背景に神々しく登場しますが、その燦然たる煌めきは息をするのも忘れてしまうほど。加えて、ドームの観客席は、ペンライトが創る眩い色の輝きが幻想的で神秘的な情景を醸し出していました。大画面がなし得る業ですね。

「感謝カンゲキ雨嵐」から「言葉より大切なもの」に至る最初の曲の流れで早速テンションは上々です。画面から溢れ出る高揚感で、その場で立ち上がり、声を上げたい衝動を必死に抑え込んでいました笑。

やはり松本さんは稀代の演出家です。

広大なドーム空間に張り巡らされた数々の工夫はもちろん、曲に合わせた演出には観客を楽しませる要素がふんだんに盛り込まれていました。その演出を身体で実体験したい方は、ぜひ映画館へ足を運んでみてください。

評価(低)

嵐のコンサート映画は高い完成度と満足度を誇る圧巻の映像作品です。

一方で、今回の映画の一部には、ぼくが十分な満足を得られなかった点があるのも事実。次はその点について、ぼくの辛口評価を交えながら評価していきたいと思います。

①しつこいカメラ

一つ目が、カメラの多さです。

東京ドームでは、100台以上のカメラを使って撮影を行っていたそうです。今回の映画は、あらゆる視点から撮影された映像を使い、より立体的に会場を映し出す試みが行われていたといいます。

ですがぼくは、このカメラ台数の多さに少し辟易してしまいました。なぜなら、設置カメラ台数の多さゆえに、目の前の映像が目まぐるしく入れ替わるからです。

個人的には、一人一人の歌唱風景を落ち着いて眺めていたい。そして、特定の視点から撮影された五人の映像をじっくりと堪能したいと考えていました。

しかし、画面の切り替わりがはやいと、落ち着いて楽しむなんてもはやできません。忙しない映像に視覚も聴覚も追いつけないのです。

技術の進化は恩恵も弊害ももたらします。今回の作品には、若干の弊害を感じてしまいました。

②皆無のストーリー要素

二つ目の不満点は、ストーリー(ドキュメンタリー)要素の薄さです。

生のコンサート会場であれば、想い出深い多数の楽曲を披露して、観客の掛け声やペンダントとともに会場を盛り上げること自体に魅力があるのでしょう。そこにストーリー要素がなくてもあまり疑問には思いません。

ですが、ぼくが見たのは「映画」です。掛け声も手拍子もできない映画館でみる映像作品です。映画であれば、普通のコンサートとは一味違う工夫を凝らしてほしいと思いました。特にぼくが望んでいたのが、ストーリー要素です。

たとえば、嵐五人が歩んだ20年間を振り返り、一本の映画としての物語性を構成する要素があればより満足のいく作品に仕上がったと思います。

ここでぼくが取り上げたいのは、5×10のときの国立公演。

この公演で印象に残る場面が、五人が『明日の記憶』を歌唱した部分です。五人の生い立ちの映像・画像を、曲のメロディーや歌詞とともに振り返る場面。映像と歌詞がマッチしていて、五人が10年の中で経験した苦労や喜びがまるで自分事のように感じられるパフォーマンスでした。

さらに5×10では、五人が順番に10年間の歩みを語る印象深い場面もありましたね。長年嵐を応援してきたファンとしては喜ばしい演出でした。

ですが、今回の映画には、心の琴線に触れる独特のパフォーマンスが見られませんでした。代表曲を歌唱し、ラストを20周年の記念ソングで占めるという月並みの構成です。

もちろん、ライブそのもののパフォーマンスを否定するわけではありません。

ライブを映画化するのであれば、その特徴を生かした映像作品に仕上げてほしかったです。過剰な台数のカメラを盛り込むよりも、ファンの感情を揺り動かす繊細で工夫に富む要素を盛り込んでほしいなと思いました。

③アンコール問題

最後は、アンコールです。

今回の映画には、アンコール後のパフォーマンスがカットされていました。

単純な疑問。なぜ・・・?

アンコール後の演出は嵐のライブの醍醐味。私事ですが、ぼくが嵐のDVDを見る時に最も心待ちにする場面こそがアンコール後の演出なのです。では、この場面が総じてカットされた趣旨はどこにあるのでしょうか。

一部には、嵐の「再登場」を夢の「続き」と捉える意見も散見されました。コンサートの終着地をあえてカットすることで、その夢の続きをファンとともに心待ちにする趣旨があるのではないかというご意見です。

この意見は確かに、論理的には納得できる筋道のある根拠だと思います。しかし、理性では納得できても感情では納得できない。やはり、アンコール後の嵐の再登場を大画面で歓迎したかったぼくの気持ちは未だに変わりません。

まあ、ここで何度嘆いても仕方ありませんね笑。この場面はDVDで楽しみたいと思います!

まとめ

高評価の意見は、すでに他のサイトで散々書き込まれているので、今回の記事では逆に、個人的な辛口意見を三つ取り上げてみました。

感想をまとめれば、ストーリー要素とアンコールの演出があればより満足できたのかなと思います。とはいいつつ、五人のコンサートが映画化された作品を鑑賞できただけでぼくは大方満足しています笑。

ちなみにいま、もう一度見に行こうか思案中です・・・。しかしチケットは一枚約3,000円。中々悩ましいところです。

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【コンストラクティビズム】ぼくの備忘録

こんにちは、あきとです。

ぼくは卒論でコンストラクティヴィズムという摩訶不思議な方法論をもちいて研究を進める予定です。今回は、自分なりに書籍や論文で収集した知識をもとに、ぼくが現段階で有するコンストラクティヴィズムへの理解度を記事として書き残しておきたいと思います。

自分の言葉で概念を整理したいというわけです。早速始めます!

基礎

「社会的事実」は、社会的につくりだされてきた(構築されてきた)ものであると指摘するのが、コンストラクティヴィズムです。

裏を返せば、絶対的に正しいといえるような国際制度やシステムは存在しませんよ、ということになります。「つくられた」ものであれば、「壊し」て「つくりかえる」ことができるからです。

これを国際政治学に応用すると、「国際構造」は「国家」によってつくられるものであるし、「国家」も「国際構造」をつくりかえることができる、という説明になります

この考え方は、「国家は合理的に行動する」し、「構造に縛られて動くのだ」という考え方を前提にしていた理論(ネオネオ)を批判する形で登場しています。だって、構造も国家の利益も変わりうるものだからです。

はじめて聞く方からしたら意味不かもしれませんが、ちょっと我慢してください。義務教育終えた人なら、最後まで読めばコンストラクティヴィズムを大まかに理解することができるかもしれません。さすがに、小6とかはきついかも

つまり、ぼくたちが社会構造をつくるのであると同時に、社会がぼくたちをつくりあげているのです。コンストラクティヴィズムは、主体と社会の「相互作用」という点を重要視しているともいえます。

いまいち抽象的で意味がわからない方も多いと思います。ですが、そんなもんです、国際政治学って。

だからこそ、わかると楽しいんですけどね。

コンストでよく使われる用語:構築、構成、間主観性、内面化、社会化、アイディア、アイデンティティ国益、相互作用、全体論、観念論、存在論、認識論、安全保障化、規範的起業家などなど

コンストラクティヴィズムって長くて腱鞘炎になるので、で、以下では「コンスト」と略したいと思います。

コンストラクティヴィズム

さて、では早速、コンストラクティヴィズムというミステリアスな用語を理解することからはじめていきましょう。

理論

「まくら」でも指摘した通り、コンストとは、社会的事実はどのように構築されているのか、その現実はどのように社会で共有されることになったのかを解きあかすことを目的としています。

なので、これは「理論」ではないと思います。

理論というのは、いろいろな場合にあてはめることができる「一般的なパターン」のことをいいます。このパターンを個別の出来事にあてはめることが、理論家のお仕事です。

たとえば古代中国には、「性悪説」という理論がありました。これは、「人間って結局利己的で邪悪だよね」ということを前提にしている考え方のことです。

この理論を支持している人は、「性悪説はいろいろなことを説明できる一般的なパターンだよね」と考えています。事実、この理論を使えば、カンニング行為や万引き、詐欺のような一つ一つの出来事を説明することができるからです。

反対に、性善説というのもありますね。

すなわち理論というのは、「どこに着目しているのか」によって区別できるんです。

性悪説なら、人間の悪い側面に着目している。性善説なら、良い側面に着目している。という具合です。

リアリストたちは、「国家は自分のことしか考えない→だから世界はアナーキーになる」という「パターン」を前提において、いろいろな研究をしています。

コンストは、こういう前提すらも社会的につくられたものであると指摘しているわけです。だから、アナーキーが生まれないこともあるし、生まれることもあるというのです。

どうやって現実はつくられるか

要旨:主体によって提唱された概念や理論が社会的に共有されることで関主観的理解がつくられ、それが社会的現実となる。つくられた現実は社会の構成員のあいだでたびたび用いられるようになることで、この現実は再生産される

さて、今までの説明で理解できる人がいたら、たぶんその人は天才です。

ここからは、どうやって「社会的現実」がつくられるのかについて、ざっくりと説明していきます。

たとえば今のぼくたちは、「相対性理論」という考えを通して宇宙を理解していますよね。まあ簡単にいうと、光の速さは一定だよね、という事実を受け止めていますよね。

では、この社会的現実(相対性理論はすげえ!という現実)はどうやってつくられたのでしょうか。

主体

まず必要になるのが、「主体」です。

ここでは、アインシュタインくん(以下、アイン)ですね。

アインが「相対性理論や!」と発言しない限りは、相対性理論が社会にいきわたることなどありえませんからね。

ただこのままでは、「相対性理論はすばらしい」という社会的現実がすぐにつくられるわけではありません。

だって、そうでしょう。知らないじっちゃんがいきなり「相対性~じゃ!」みたいなことをいったところで、ぼくたちは「おお、変なじっちゃんおるぞ」っていう反応をするだけですからね。

すなわち第一段階では、相対性理論は、アインのただの「主観」に過ぎないのです。

でも、それだけでは足りない。一人の主観だけではものたりない!

この理論が、「なぜ正しいのか」、「なにがよいのか」みたいなことが共有されないと、相対性理論が社会的な現実となることはないからです。

共有

つまり、次に必要になるのが「共有」です。

社会の中で、「相対性理論ってすごくね?」、「あの理論、正しいやん」みたいなことが知れわたること(=共有されること)が必要になります。

井戸端会議で理論のすごさを知るかもしれないし、頭がいいお友達から教えてもらうかもしれない。学校で教えてもらうかもしれない。

プロセスはどうであれ、「共有」されることが大事なのです。

ある程度まで共有された場合に、概念や理論は初めて「社会的現実」となります。

つまりこの時点で、最初はアインの「主観」にすぎなかった考えが、ついに「現実」となるのです。このことを専門的に、「間主観性」といいます。

100%の人に共有されているわけではないけれど、多くの人の間で同じような「主観」が「共有」されるということ。たくさんの人の「間」で、同じような「主観」が共有されるということ。だから、主観の前に「間」というワードがついているわけです。

再生産

さらにさらに、社会で共有された現実は、ぼくたちによって使われますよね。相対性理論を使っていろいろな研究をする人がいるのがいい例です。

理論という「考え方」が共有されて、その考え方をぼくたちが使うようになることで、「相対性理論は正しいよね」という社会的現実が再生産されることになります。

再生産というのは、社会的現実(相対性理論は正しいよね)が強固になるということです。

だって、相対性理論がまったく使われなくなってしまったら、せっかくぼくたちのあいだに広まった「共有」がどんどん薄れていってしまいますからね。

すなわち、社会的現実とぼくたちとのあいだには、強い相互作用があるということです。ぼくたちが使うと社会的現実が強固になるし、その影響を受けて、ぼくたちはさらに社会的現実を使うようになるからです。

 

なんで構造は変わるのか?

要旨:「コンストラクティヴィズムは、行為主体と構造の誕生を一方向的のみにとらえるのではなく、行為主体の実践の変化が構造の変化にもなりうるし、構造の変化が行為主体の実践の変化にもつながりうるという双方向的な理論を展開している」

さて、コンストは社会的な現実はどのように構築されたのかを明らかにするものでしたね。

では、本当に現実(=構造)は変わりうるのでしょうか。

ここからは、構造の変化について考えていきましょう。

と思ったのですが、文字数がえらいことになっているので、このお話はまた次回です。

ごめんなさい。記事数稼ぎたいので笑

まとめーコンストは難しい

今回の記事では、国際政治学の分野ではかなり重要な考え方であるコンストラクティヴィズムのバリっバリの基礎を説明してみました。

  • 社会的現実の構成には「主体」と「共有」と「再生産」が必要
  • 主体=発言者(個人or国家etc,,,)
  • 共有=(たくさんの人の間の「間主観性」)
  • 再生産=社会的現実を使い、その現実の信頼性が向上
  • 主体と社会は相互作用する。
    • つまり、主体の変化が構造の変化に影響を与えるし
    • 構造の変化が主体の変化にも影響を与える

ただ、コンストラクティヴィズムはこんな浅はかな知識だけで理解できるほど単純なものではありません。

そもそもコンストは、もともと哲学や言語学などの分野で用いられていた考え方であり、国際政治学者が考案したような理論ではないのです。

国際政治で使われるようになったのは、「オヌフ」という政治学者が哲学の分野で使われていたコンストという言葉を自分の論文で引用したのがはじまり。そのあと、ドイツ生まれの天才、アレクサンダー・ウェントによって、国際政治学用の理論として大きな発展をとげることになるのです。

だから、コンストをガチで理解しようとするなら、哲学とか現象学とかを理解しなきゃいけない。

ほかにもたとえば、認識論とか存在論みたいな「ミステリアス」なことまで学ばないといけないのです。

さらにコンストには、「穏健」から「急進」まで立場に幅があります。

コンストラクティヴィズムの記事の需要がどれだけあるのかわかりません、

ですが、ぼく自身コンストがすきなので、できるかぎり書いてみたいなと思ってます。

というか、国際政治学がすきです。

次回は、「なんで構造が変わるのか」について書いていきたいと思ってまーーーす

雑記

港区できれいなイルミネーションをやってるようなので、近々行ってみたいと思います。

今のところぼっちで行く予定なのですが、たぶん、ぼっちで行くことになると思います。

そういえば、「ぼっち」とか「陰キャ」ていう存在も、コンストラクティヴィズムで分析できそうですよね。

今度、ガチで分析した記事を書いてみたいです笑

【データ復旧】にゃんこ大戦争と再会

こんにちは、あきとです。

にゃんこ大戦争は、ぼくが中学生のころにリリースされて今でも根強い人気を誇るスマホゲームです。

しかしぼくはとある思い付きでゲームデータを消してしまい、一時期はだいぶ意気消沈していました。ただ、運営様のおかげで、今では復旧したデータで再び遊びに興じることができています。

今回の記事では、自己責任で消失したゲームデータを復旧するために要した物や手順についてくわしくご紹介したいと思います。

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データ消失

ぼくがにゃんこのデータを削除した理由は、公務員試験の勉強に専念したかったからです。

当時は、にゃんこにドはまりしていたわけではなく、特段強い思い入れもなかったので、アプリのアンストにも心理的な抵抗を感じることはありませんでした。

ですが、就活後は途端にゲームへの欲が湧いてくるものです。

にゃんこも例に洩れません。

そこでぼくは、当時残していたスクショを頼りに、運営元にデータの復旧を依頼することにしました。

必要なもの

ぼくは問い合わせの際に以下のものを準備しました。

  • アプリ
  • 自分のデータのお問い合わせ番号

一つ目は、アプリです。なぜなら、運営への問い合わせはアプリ経由で行うからです。

これは、新しくダウンロードしたアプリでも差し支えありません。

次に必要なのが、「お問い合わせ番号」

これは、にゃんこ大戦争のオープニング画面(ゲームスタートとかオプションとかを選ぶところ)の左上に表示されている、九つの英数字で構成されているコードのことをいいます。

復旧までのステップを解説

  1. 復旧の旨をアプリ経由で問い合わせ
    1. ホーム画面→オプション→ヘルプ→お問い合わせはこちら→メルアドやお問い合わせ内容を入力
  2. PONOSから折り返しのメールを受信
  3. メール内容を確認して返信
  4. PONOSから復旧番号が届く
  5. 機種編コードのところに(4)の復旧番号を入力して復旧完了
    1. ホーム画面→オプション→機種変更→「手続きをしたデータを引継ぐ」からコードを入力

(1)で送る内容は、「にゃんこ大戦争のデータを復旧したいです」みたいなシンプルな内容で十分です。細かいことは次の(2)の段階で詳しく報告する必要があります。

(2)では、主に五つの質問事項が送られてきます。(メールの無断転載が禁じられているので、メールをスクショして載せることはできません)

  • お問い合わせコード
  • プレイ時に使っていた端末とそのバージョン
    • 「iPhone8, ios14」みたいな
  • ユーザーランク
  • 最終ログイン日
  • 開始日

(3)では、(2)の質問事項に回答を入力して、再度PONOSに返信してください。曖昧な部分は、「たぶん」とか「おそらく」の副詞をつけておけばいいでしょう。ちなみに僕は、最初の二つ以外は見当もつきませんでした。

PONOS側はこの情報に基づき、ユーザーのデータを探しあててくれます。

(4)では、無事にデータが見つかれば、その復旧番号を教えてくれます。

(5)では、復旧番号を入力すれば、無事にデータを取り戻すことができました。

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時間

復旧までに要する時間は、長くても一週間程度です。

土日や祝日を挟むともう少し時間がかかるかもしれません。

まあ、PONOSが休日出勤等を強要しないホワイトな会社であることの証左ですね笑。

お問い合わせ番号の消失

お問い合わせ番号がなければ、復旧は絶望的であることを覚悟してください。

この番号は、ただ一つのデータを、PONOSの大量のデータの中から発掘・識別するために不可欠な要素です。

個人を識別するマイナンバーのようなものです。

ただ、この番号がなくとも諦めてはいけません。

お問い合わせ番号以外で、他のデータと差別化できる情報が十分にあれば、その情報に基づいてデータを発掘できる可能性が残されているからです。

そのためには、先述した(2)のステップで、PONOSの質問事項に、極めて明瞭かつ具体的な回答を入力しなければなりません。

どちらにせよ、問い合わせ番号を焼失した場合も、一度PONOSに問い合わせてみるのが一番でしょうね。

まとめ

にゃんこ大戦争は9年近く続く言わずと知れた老舗のゲームです。

ぼくがこのゲームに感じる魅力は、ひとえに工夫と遊び心にあふれたキャラクターデザイン。どのキャラクターも非常に個性的ですよね。

今回は無事にデータを復旧できましたが、それは運営様のシステムのおかげだと思います。

ぼくは特段にゃんこ大戦争に熱中しているわけではなく、暇があればワンプレイする程度の気持ちで嗜む程度です。その方が飽きずに長続きしますし、毎日の適度な刺激として十分に楽しむことができています。

今後も、復旧データを大切にしながら、マイペースで、ステージの攻略やキャラクターの収集や育成に勤しんでいきたいと思う次第です。