こんにちは、あきとです。
ぼくは卒論でコンストラクティヴィズムという摩訶不思議な方法論をもちいて研究を進める予定です。今回は、自分なりに書籍や論文で収集した知識をもとに、ぼくが現段階で有するコンストラクティヴィズムへの理解度を記事として書き残しておきたいと思います。
自分の言葉で概念を整理したいというわけです。早速始めます!
基礎
「社会的事実」は、社会的につくりだされてきた(構築されてきた)ものであると指摘するのが、コンストラクティヴィズムです。
裏を返せば、絶対的に正しいといえるような国際制度やシステムは存在しませんよ、ということになります。「つくられた」ものであれば、「壊し」て「つくりかえる」ことができるからです。
これを国際政治学に応用すると、「国際構造」は「国家」によってつくられるものであるし、「国家」も「国際構造」をつくりかえることができる、という説明になります
この考え方は、「国家は合理的に行動する」し、「構造に縛られて動くのだ」という考え方を前提にしていた理論(ネオネオ)を批判する形で登場しています。だって、構造も国家の利益も変わりうるものだからです。
はじめて聞く方からしたら意味不かもしれませんが、ちょっと我慢してください。義務教育終えた人なら、最後まで読めばコンストラクティヴィズムを大まかに理解することができるかもしれません。さすがに、小6とかはきついかも
つまり、ぼくたちが社会構造をつくるのであると同時に、社会がぼくたちをつくりあげているのです。コンストラクティヴィズムは、主体と社会の「相互作用」という点を重要視しているともいえます。
いまいち抽象的で意味がわからない方も多いと思います。ですが、そんなもんです、国際政治学って。
だからこそ、わかると楽しいんですけどね。
コンストでよく使われる用語:構築、構成、間主観性、内面化、社会化、アイディア、アイデンティティ、国益、相互作用、全体論、観念論、存在論、認識論、安全保障化、規範的起業家などなど
コンストラクティヴィズムって長くて腱鞘炎になるので、で、以下では「コンスト」と略したいと思います。
コンストラクティヴィズム
さて、では早速、コンストラクティヴィズムというミステリアスな用語を理解することからはじめていきましょう。
理論
「まくら」でも指摘した通り、コンストとは、社会的事実はどのように構築されているのか、その現実はどのように社会で共有されることになったのかを解きあかすことを目的としています。
なので、これは「理論」ではないと思います。
理論というのは、いろいろな場合にあてはめることができる「一般的なパターン」のことをいいます。このパターンを個別の出来事にあてはめることが、理論家のお仕事です。
たとえば古代中国には、「性悪説」という理論がありました。これは、「人間って結局利己的で邪悪だよね」ということを前提にしている考え方のことです。
この理論を支持している人は、「性悪説はいろいろなことを説明できる一般的なパターンだよね」と考えています。事実、この理論を使えば、カンニング行為や万引き、詐欺のような一つ一つの出来事を説明することができるからです。
反対に、性善説というのもありますね。
すなわち理論というのは、「どこに着目しているのか」によって区別できるんです。
性悪説なら、人間の悪い側面に着目している。性善説なら、良い側面に着目している。という具合です。
リアリストたちは、「国家は自分のことしか考えない→だから世界はアナーキーになる」という「パターン」を前提において、いろいろな研究をしています。
コンストは、こういう前提すらも社会的につくられたものであると指摘しているわけです。だから、アナーキーが生まれないこともあるし、生まれることもあるというのです。
どうやって現実はつくられるか
要旨:主体によって提唱された概念や理論が社会的に共有されることで関主観的理解がつくられ、それが社会的現実となる。つくられた現実は社会の構成員のあいだでたびたび用いられるようになることで、この現実は再生産される
さて、今までの説明で理解できる人がいたら、たぶんその人は天才です。
ここからは、どうやって「社会的現実」がつくられるのかについて、ざっくりと説明していきます。
たとえば今のぼくたちは、「相対性理論」という考えを通して宇宙を理解していますよね。まあ簡単にいうと、光の速さは一定だよね、という事実を受け止めていますよね。
では、この社会的現実(相対性理論はすげえ!という現実)はどうやってつくられたのでしょうか。
主体
まず必要になるのが、「主体」です。
ここでは、アインシュタインくん(以下、アイン)ですね。
アインが「相対性理論や!」と発言しない限りは、相対性理論が社会にいきわたることなどありえませんからね。
ただこのままでは、「相対性理論はすばらしい」という社会的現実がすぐにつくられるわけではありません。
だって、そうでしょう。知らないじっちゃんがいきなり「相対性~じゃ!」みたいなことをいったところで、ぼくたちは「おお、変なじっちゃんおるぞ」っていう反応をするだけですからね。
すなわち第一段階では、相対性理論は、アインのただの「主観」に過ぎないのです。
でも、それだけでは足りない。一人の主観だけではものたりない!
この理論が、「なぜ正しいのか」、「なにがよいのか」みたいなことが共有されないと、相対性理論が社会的な現実となることはないからです。
共有
つまり、次に必要になるのが「共有」です。
社会の中で、「相対性理論ってすごくね?」、「あの理論、正しいやん」みたいなことが知れわたること(=共有されること)が必要になります。
井戸端会議で理論のすごさを知るかもしれないし、頭がいいお友達から教えてもらうかもしれない。学校で教えてもらうかもしれない。
プロセスはどうであれ、「共有」されることが大事なのです。
ある程度まで共有された場合に、概念や理論は初めて「社会的現実」となります。
つまりこの時点で、最初はアインの「主観」にすぎなかった考えが、ついに「現実」となるのです。このことを専門的に、「間主観性」といいます。
100%の人に共有されているわけではないけれど、多くの人の間で同じような「主観」が「共有」されるということ。たくさんの人の「間」で、同じような「主観」が共有されるということ。だから、主観の前に「間」というワードがついているわけです。
再生産
さらにさらに、社会で共有された現実は、ぼくたちによって使われますよね。相対性理論を使っていろいろな研究をする人がいるのがいい例です。
理論という「考え方」が共有されて、その考え方をぼくたちが使うようになることで、「相対性理論は正しいよね」という社会的現実が再生産されることになります。
再生産というのは、社会的現実(相対性理論は正しいよね)が強固になるということです。
だって、相対性理論がまったく使われなくなってしまったら、せっかくぼくたちのあいだに広まった「共有」がどんどん薄れていってしまいますからね。
すなわち、社会的現実とぼくたちとのあいだには、強い相互作用があるということです。ぼくたちが使うと社会的現実が強固になるし、その影響を受けて、ぼくたちはさらに社会的現実を使うようになるからです。
なんで構造は変わるのか?
要旨:「コンストラクティヴィズムは、行為主体と構造の誕生を一方向的のみにとらえるのではなく、行為主体の実践の変化が構造の変化にもなりうるし、構造の変化が行為主体の実践の変化にもつながりうるという双方向的な理論を展開している」
さて、コンストは社会的な現実はどのように構築されたのかを明らかにするものでしたね。
では、本当に現実(=構造)は変わりうるのでしょうか。
ここからは、構造の変化について考えていきましょう。
と思ったのですが、文字数がえらいことになっているので、このお話はまた次回です。
ごめんなさい。記事数稼ぎたいので笑
まとめーコンストは難しい
今回の記事では、国際政治学の分野ではかなり重要な考え方であるコンストラクティヴィズムのバリっバリの基礎を説明してみました。
- 社会的現実の構成には「主体」と「共有」と「再生産」が必要
- 主体=発言者(個人or国家etc,,,)
- 共有=(たくさんの人の間の「間主観性」)
- 再生産=社会的現実を使い、その現実の信頼性が向上
- 主体と社会は相互作用する。
- つまり、主体の変化が構造の変化に影響を与えるし
- 構造の変化が主体の変化にも影響を与える
ただ、コンストラクティヴィズムはこんな浅はかな知識だけで理解できるほど単純なものではありません。
そもそもコンストは、もともと哲学や言語学などの分野で用いられていた考え方であり、国際政治学者が考案したような理論ではないのです。
国際政治で使われるようになったのは、「オヌフ」という政治学者が哲学の分野で使われていたコンストという言葉を自分の論文で引用したのがはじまり。そのあと、ドイツ生まれの天才、アレクサンダー・ウェントによって、国際政治学用の理論として大きな発展をとげることになるのです。
だから、コンストをガチで理解しようとするなら、哲学とか現象学とかを理解しなきゃいけない。
ほかにもたとえば、認識論とか存在論みたいな「ミステリアス」なことまで学ばないといけないのです。
さらにコンストには、「穏健」から「急進」まで立場に幅があります。
コンストラクティヴィズムの記事の需要がどれだけあるのかわかりません、
ですが、ぼく自身コンストがすきなので、できるかぎり書いてみたいなと思ってます。
というか、国際政治学がすきです。
次回は、「なんで構造が変わるのか」について書いていきたいと思ってまーーーす
雑記
港区できれいなイルミネーションをやってるようなので、近々行ってみたいと思います。
今のところぼっちで行く予定なのですが、たぶん、ぼっちで行くことになると思います。
そういえば、「ぼっち」とか「陰キャ」ていう存在も、コンストラクティヴィズムで分析できそうですよね。
今度、ガチで分析した記事を書いてみたいです笑