文明や技術が進化するにしたがって多くの言葉が生まれるようになりました。
多くの人が使いたがる「多様性」みたいな言葉もそのうちの一つです。
ぼくは昔から、軽い気持ちで多様性をあたかも神々しく使いたがるような風潮に違和感を抱いていました。
本質的なことが分かっていないと、多様性というWordを使っている自分に自己陶酔しているだけになってしまうんですよね。
今回は、ぼくがこの言葉を嫌いな理由について書きつづりたいと思います。
目次
多様性とは何ぞや
そもそも、多様性って何なのでしょうか。
wikipediaにはこうあります。
多様性とは、「幅広く性質の異なる群が存在すること」
なんだか、わかるようなわからないような感じです。
多様性が使われる言葉としては、たとえば「生物多様性」があります。
いろいろな生物が自然界を構成していることで地球の豊かさが保たれていることをいう言葉で、「自然を守ろう」的な運動が行われるときには、必ずといっていいほどでてくることばです。
この場合、地域全体に住んでいるいろいろな生物の暮らしを守ることが目的です。
なので、やみくもに「種」ばかりを増やすことは、間違いなく逆効果になります。
外来種にたいする規制が行われているのも、これが理由です。
生物の種類が多いことは好ましいけれど、そこには「持続性」がなければならないということです。
こう考えると、いま一般的にいわれている多様性にも同じようなことが言えるのではないでしょうか。
つまり、多様性とは、「持続可能」であることを前提とした「いろいろな人」がいる自由社会のことだと思うわけです。
シリコンバレー
ですが世の中には、「持続性」みたいなことを一切気にせずに多様性について語ってしまう意識高い系論者がいっぱいいる気がします。
つまり、やみくもにいろいろな性格や人種やら宗教やらを認めてごちゃ混ぜにした社会を目指そうとしてしまうのです。
たとえば、シリコンバレーの状態を考えてみたいと思います。
アメリカ西海岸のカリフォルニア州に位置するIT企業の集積地、シリコンバレー。
あそこが継続的に多くのビッグカンパニーを生み出しており、かつそれぞれが多くの利益率をたたきだしております。
シリコンバレーには、アメリカ人だけではなく、インド人や中国人、アラブ人をはじめとする多くのバックグラウンドをもつ人々がバリバリはたらいています。
肌の色も、信仰している宗教も、ホントにいろいろあります。
では、シリコンバレーに世界中のお金が投資されつづけ、時価総額ランキングの上位企業のおおくを占める企業がうまれつづけている背景には、何があるのでしょうか。
個人的には、二つあると思います。
一つ目は、共有されたコミュニケーションツール。
二つ目は、共有されたビジネスにおける目標。
コミュニケーションツールとは、もちろん「英語」のことです。
シリコンバレーではたらいている人のすべてが、ITやビジネスについて議論できるほどの英語力を身につけているはずです。
意思疎通のためのツールが共有されていれば、システムの仕様や商品に関する情報がすぐに共有されるので、めちゃんこ効率よく開発や設計を行うことができます。
二つ目は、「IT発展」という目標が共有されていることです。
シリコンバレーの企業ではたらいてる人の中に、「反IT!」みたいな団体はいないと思います。共産党の工作員がいるかもしれませんがね笑
労働者の間で、たとえば
みたいな、IT発展を中核にした多くの目標が共有されているはずです。
目標が同じであり、使われている言語が同じである。
英語が使われている。IT発展が共有された目標である。
だからこそシリコンバレーは、常に「持続的・安定的」に発展しつづけている地域だと思うわけです。
だから多様性が嫌い
多様性とは、「安定的・持続的」に成長しつづけられることを前提として、多様な人々が集まっている自由社会のことだと思います。
しかしぼくは、、多くの人(特に左側の人)が「多様性=ごちゃ混ぜ状態」と勘違いしている気がするのです。
脱亜入欧的な考えをもとに、やみくもにLGBTQQIPPAAO2Sのような人の権利を認めたがり、いろいろな外国人が地域にいることを理想的な状態だと思いたがり、多様性の考えをもたない人を受け入れようとしないような人が、わんさか増えていると思います。
「価値を認め合う」、「お互いを尊重する」みたいな耳当たりのよいきれいごとをほざきまくり、それをやたらと人に教えたがるんですよ。
さらに多様性をほざく人は、多様性にたいして慎重な人のことを否定的な目でみようとします。自分が進んだ考えをもっていると勘違いしてしまっているからです。
多様性を主張しておきながら、異なる意見を認めようとしない。
おそろしく自己矛盾しておりますね。
世の中には、ほんとうにいろいろな人がいます。
価値を認め合えない相手もいます。
尊重できない相手もいます。
ぼくも、数年以上姉のことを恨みつづけています。価値なんて認め合えないし、尊重なんて絶対にできない。
それが、いまの社会です。それが、現実です。
そして、誰の価値を認めるのか、誰のことを尊重するのかは、完全に個人の自由です。
もちろん、相手の命や生存を精神的・身体的に脅かすようなことをしている場合には、法的な手段が必要になるでしょう。
ただそれはあくまで、差別という「行為」にでた場合です。
思いや考えが内心にとどまる限りは、個人の自由なのです。
ぼくは決して、嫌いな姉にたいして何も手を出さないし何も言わない。完全に無干渉です。
多様性を言いたがる人は、こういう本質的なことを全く理解していないのです。
それなのに、やたらと多様性を叫びたがる理由はどこにあるのか、ぼくには全くわからない。
これが、ぼくが「多様性」という言葉が嫌いな理由です。
なので正確に言えば、「多様性」が嫌いなのではなくて、「多様性」を自己陶酔しながら語りたがるような人が嫌いなのかもしれません。
知ったかぶりは恥ずかしい
ぼくは、多様性という言葉を気軽に使うようなことに賛同できません。
まあ、言葉を使うのは自由なのでいちいち言葉狩りみたいなくだらないことはしません。したくもないです。
ただ少なくとも、冷めた目で見てしまうのは事実です笑
本や雑誌、メディアで聞いた言葉を、あたかも自分がすばらしい知識通であるかのようにほかの人に話すのは、明らかに知ったかぶりです。
たいした知識もないのに、やたらと専門用語や横文字を使いたがる。
知ったかぶりは怖いし、なにより恥ずかしいと思います。
もう一度書きますが、少なくとも何をしゃべるのかは完全に人の自由です。勝手にいろいろしゃべってください、自己責任で。
ただ、浅はかな知識で知ったかぶりの状態で人と話してしまうと、自分で墓穴を掘ることになってしまうはずです。
たとえば、太陽光や風力大好き・再エネ大好き・グレタ大好き人間であっても、いまの欧州や中国のエネルギー危機については何も言えない。
それは、エネルギー政策の本質と現実をわかっていないから。
だからぼくは、浅はかな理解しかなくて、現実的なことを考えられないで、本質的なことを考えられないまま「多様性」のようなワードを使うことにとてつもないイライラを覚えてしまうわけです。
ぼくは、知ったかぶりの人間にだけはなりたくない。
自分の知識には、うざいほどに謙虚でかつ正直でありたい。
この記事を書きながら、こう思いました。