こんにちは、あきとです。
巷で人気のキーワードとなりつつある「多様性」という言葉。
ぼくは昔から、多様性というこの言葉が、世間の至るところで称賛されて、美化されている状況に、多少なりとも違和感を抱いていました。
どうしても説教じみた美辞麗句のように聞こえてならないのです。
今回は、多様性のある社会に焦点をあてたぼくなりの考えを述べていきたいと思います。
多様性
そもそも、多様性って何なのでしょうか。
wikipediaにはこうあります。
多様性とは、「幅広く性質の異なる群が存在すること」
なんだか、わかるようなわからないような感じです。
多様性が使われる言葉としては、たとえば「生物多様性」があります。
生物多様性は、自然界はいろいろな生物で構成されており、それが地球環境の豊かさに寄与していることを指しています。
この場合、生物多様性の目的は、地域全体に住んでいる種々様々な生物の生存を保証することです。種の多様性が豊かな地球環境を創造するからです。
つまり、目的はあくまで「環境保護」であり、「種」の多様性の保障はその手段にすぎません。
やみくもに種を増やすことは、一切奨励されておらず、だからこそ、外来種の規制が各国で行われているともいえましょう。
持続可能性がない雑多な環境は無秩序な地獄絵図と化します。
つまり、多様性のある社会とは、「持続可能な秩序の確保を一義的な目的とした多様な人物・種の共同社会」を指すと思うわけです。
多様性と秩序
秩序の成立は、多様性のある社会の成立の前提条件です。
そして秩序は、社会の構成員による規範や価値観の相互の共有により生まれます。
たとえばシリコンバレーは、人種や国籍が異なる多様な人が一堂に集積した世界的な投資・ビジネス市場です。
この市場が、秩序と統制のとれた多様性を確保できる根拠はどこにあるのでしょうか。
それは、社会の構成員が、互いに何らかの要素を共有しているからです。
たとえば、意思疎通としての言語である「英語」。あるいは、企業業績の向上や製品の開発・改良等のビジネス上の「目標」。
言語と目標の共有は、社会に秩序を成立させるための核となる要素です。
シリコンバレーには、この二つの要素を相互に共有できるビジネス環境があります。
このように、秩序の成立は、社会が多様性を確保しながら持続的に発展するために不可欠な要素だといえるのではないでしょうか。
偽多様性
多様性とは、安定的・持続的な成長に基づく自由で多様な共生社会のことを指します。
決して、無秩序な混合状態を指す用語ではありません。
ですが最近は、平等や普遍的人権の名のもとに、すべての価値を等閑視して、その価値を受け入れられない人を、まるで悪の権化のごとく糾弾する例が散見されるようになりました。
百歩譲って、すべての価値が平等であると仮定しましょう。
ですが、その価値をすべて等しく受け入れるべき義務がぼくたちにあるわけではありません。
逆にいうと、すべての価値を無制限に受容したら、その社会の平穏と安寧が崩壊するのは時間の問題です。
なぜなら、その社会はもはや、言語も習慣も文化も規範も十分に共有できていないからです。
多様性は確かに大切な価値観です。
ですが、多様性の内実を知り、それがぼくたちの社会に及ぼす効果や影響を深慮することも、それと同じか、それ以上に大切なのではないかと思います。
まとめ
多様性という言葉の心地よい響きに酔心してしまう人は一定数いるでしょう。
ですが、多様性がある社会の根底には、秩序が成立していなければなりません。
正確にいえば、秩序の成立は、多様性のある社会の構築と同時進行で行われるべき事柄です。
さまざまな人種や価値観の存在を重んじる態度にはぼくも大いに賛成です。出自や国籍だけで人の価値を画一的に定めるのは、傲慢極まりない尊大な態度だと思います。
ですが、だからといって、それらを無制限に受容して社会の多様さを徒に増幅させるべき義務はどこにもありません。度を越えた多様さは、秩序を崩壊させる危険を内包しているからです。
月並みな言い方にはなりますが、結局物事はバランスです。多様性も、バランスです。
このバランスを考えるのが難しいのですが、まあそれは政治家やお偉い学者さんのお役目。平凡なぼくたちは、社会の実情や変化を見ながら、多様性という言葉について考えつづけていくことが大切なのではないかと思う次第です。